アメリア・イヤハート

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1903年12月アメリカのライト兄弟により、 ついに人類は長年の夢であった空への
切符
を手に入れました。 人類が空を飛行するというあらたな手段を得た瞬間
だったのです――
― しかし飛行機を手にした我々の喜びもつかの間、その後の第一次世界大戦
では戦闘機という強力な「兵器」として改良され利用されてしまいます。

                       「イラスト― アメリア・カット(ショート・カット)も流行に 」

 こうした文明の進歩は戦時下における兵器の規模の拡大へ残念ながら
つながります。 逆に、兵器開発による技術革新がもたらす便利な生活もまた
皮肉なことです・・・。

1914年に始まった第一次世界大戦では、人類史上初めて毒ガス戦闘機
そして強力な威力を持つ爆弾などの大量破壊兵器が登場しました。
 言うまでもなく人的な被害もそれまでの戦争にはない残酷で大きなものに
なってしまうのです――。

 この恐るべき大戦がようやく終結し、人々がもとの平和な暮らしに戻ろうと
していた1920年代――アメリカではさまざまな分野で人々の「躍動」が始まり
ます。 
それは経済や文化にとどまらず、希望ある探険や飛行が隆盛を極めることから
もその「躍動」を感じられるのです。

 1927年5月20日(~21日)、世界を仰天させる偉業が達成されます。 
アメリカの飛行家 チャールズ・リンドバーグによる「大西洋単独横断飛行」
が成功する
のです。
「翼よ、あれがパリの灯だ」~という有名なセリフの真偽はともかく、この
フライトが象徴することは、人々が大戦の痛手から立ち直り再びロマンへ
の関心が高くなったということを意味します。 

 それから5年後の1932年5月20日、リンドバーグと同じルートで単独飛行
に挑戦しようとする一人の女性が現れます。 
その女性こそ、伝説の飛行家として知られるアメリカ・カンザス州出身の
アメリア・イヤハート なのです。 
1932年当時34歳のアメリアでしたが、その飛行歴は長く、業界では名の
知られた女性でした。

 当時のアメリカでも女性の地位向上を目指す気運は高まっていました。 
そうした状況へ 登場したアメリアは女性達の期待と憧れの的だったのです。
 そんな女性達の熱い眼差しを一身に背負って、カナダ・ニューファンドランド島
のハーバー・グレース(グレース湾)から飛び立つのでした。 

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彼女の愛機である深紅のロッキード・ベガは、
当時の飛行機としては高性能として知られています。 
その信頼するベガと一体となり、途中の強い北風や寒さ、そしてさまざまな困難に遭いながらおよそ15時間後アイルランドに到着、見事
女性初の大西洋単独横断飛行に成功するのです。 

 




しかしアメリアはこの偉業に満足することなく、「世界一周」という大きな目標
密かに決意するのでした。 
彼女自身、自分に対する世間の注目が女性の権利を高める効果があること
を十二分に理解していたのです。
1935年1月11日にはその「前哨戦」とも言われるハワイ(ホノルル)から
カリフォルニア(オークランド)までの単独飛行にも成功します。 
(※ 1月11日は、彼女の功績と精神を記念してアメリア・イヤハート・デー
                                     
とされている)
そして1937年5月21日、念願の「世界一周飛行」へ向かうのです。

 当時アメリアはこの大計画について、

    「飛行記録が更新される時は、将来のために
              犠牲になる覚悟を持った人が現れた時よ」


              と、今考えると意味深に語っています。

 この飛行ではベガではなくロッキード・エレクトラ双発機)に乗り込んでの
出発でした。  (同乗者は優秀な航法士、フレッド・ヌーナン
二人は東周りで順調に飛行を続け、6月末にはニューギニアのラエ飛行場に
到着。 燃料補給や整備をし、7月2日にホノルル方面へ向けて飛び立ちます。 
ここまで計画の3/4を飛行していた二人に対して、アメリカ国民は無事の成功
を信じて疑わなかったのでした。

  ――まさかこれが彼女のラスト・フライトになろうとは
                誰ひとり想像すら出来なかったのです・・・・・・

  その夜7時をまわった頃、思いがけない電文が受信されます。

       「・・現在地点が分からない・・・」 
       「・・・燃料が不足している・・・・・」


              そして消息が途絶えたのです―――。

 詳しいやりとりは手元の資料にありませんが、管制ではアメリアとフレッドが
広い太平洋上で航路を誤った、という見解に達しました。
  そして最悪でも洋上へ着水していることを願ったのです。

 連絡を受けた時の大統領ルーズベルトは、すぐさま二人の救出へ全力を
入れます。沿岸警備隊、海軍、そして空からも400万ドルをかけたと言われる
大捜索が展開されました。 
   しかし、アメリアとフレッドを発見することはなかったのです――。

 おりしも捜索エリアは日米の間でも緊張の高まりつつあった水域であり、
一説には着水したアメリア達を日本側がスパイとして拘束したのでは??と
ささやかれるほどのキナ臭い時期でした。 
ご存知のとおり、その2年後の1939年、ドイツ軍によるポーランド侵攻
きっかけに、残念ながら世界は再び戦争へと突入していくことになります。
1941年12月、ついに日米が交戦すると、それまでの冒険飛行という夢を
乗せたプロジェクトは余力をを失っていくのでした――。


 アメリアは出発前にこんなことも言っています。

       「これが私の最後の長距離飛行よ」 と・・・


 アメリアが行方不明になってから一年後、国際ゾンタ
              (女性の地位向上を目的とする国際的な奉仕団体)
アメリア・イヤハート基金を発足させます。 これは毎年航空関連専門の
女性研究者などを認定し支援する制度です。
 
 あれから70年――彼女のラスト・フライトは悲しいものでしたが、
その偉業と志はまさに女性の職業的、社会的地位の向上に寄与し、
勇気を与えた素晴らしいものでした。
 
 アメリアの理念は、
          こうして毎年確実に受け継がれているのです――。


    「心の平和を与える代償として、
                 人生が要求するのは勇気である――」

     
                               アメリア・イヤハート




☆ 今回は数あるビートルズの曲の中でも
             唯一のインスト・ナンバー~♪


  
♪ Flying. 
  
(ゆったりとしてシンプルながらもセンスを感じますね!)

     ☆ Flying. (音・映像)


 

アメリア・イヤハート―それでも空を飛びたかった女性 Book アメリア・イヤハート―それでも空を飛びたかった女性

著者:リチャード テームズ
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 ☆ 飛行家として女性の地位向上にも尽力した
    勇気ある信念の人――アメリアの生涯。


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 ジョージ・マロリー

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                                     「 不屈の精神を持ったマロリー 」

ご存知の方も多いと思いますが、あの  世界最高峰のエベレスト (チョモランマ - 8848m)に初めて登頂に成功した人物はニュージーランド人の登山家、
エドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイですね。
                 
                 

 しかし、それより29年も前に実は登頂をしていたかも知れない(!)という人物がいたのです。
 
今回は、今なお エベレストの謎のひとつに数えられ、語り継がれるイギリスの伝説の登山家――ジョージ・マロリーをご紹介します。

 1886年、牧師の家で生まれたジョージ・マロリーは1921年(34歳)にイギリス第一次 エベレスト遠征隊に召集されます。 
  (登頂にあたってのルートなどの調査が主な目的)
翌22年には登頂を目的とする第二次遠征隊にも参加します。 
しかし、この遠征では不運にも雪崩に遭い、7名が亡くなるという事故により断念します。

 1924年には第三次遠征隊が組織され、マロリーにとって「三度目の正直」となるはずでした。 当時すでに名実ともに有名な登山家だった彼は、登頂の際に意外なパートナーを指名します。 
 若く登山経験の浅いアンドリュー・アービィンをパートナーとして指名するのです。 当時まだまだ開発途上の酸素ボンベは故障が多く、また重量もあるために、ボンベの扱いに慣れていて体力のあるアービィンを指名したのでした。
 そして6月8日、いよいよ第6ベース・キャンプを後にします―――運命の登頂へのアタックが始まったです。

 当初、軽快に頂上へ向かって登る二人が確認され、徐々に小さくなっていく彼らの姿からは「初登頂」への期待が高まりました。 
 しかし、第二ステップ(セカンド・ステップ)と呼ばれる難所に挑む 豆つぶほどの二人を仲間のオデール目撃したのを最期に、その姿は雲の中へ忽然と消えたのでした・・・・・・・・

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                 「イラスト - 世界最高峰――エべレスト 」

 20世紀初頭の未開地探険ラッシュという背景には、イギリスにとっての国家としての威信も深く関わっていました。 当時、北極と
南極の極点到達とも他国に先を越されていたという経緯があり、
                (アムンゼンの記事参照
 あとは「第三の極点」となっていた最高峰 エベレストを残すのみだったのです。 そのため、イギリスのエベレストへのこだわりと執念は 並々ならぬものだったのでした。

 そんな時代背景の中で組織された遠征隊でした。 
しかし第二ステップを最期に消息不明となったマロリーとアービィン――その後の捜索でもついに発見することが出来ませんでした。  そしてその消息とともに、後に語り継がれる――
「登頂に成功したかどうか」という謎が残されてしまったのです。 

 それから29年――1953年5月29日、ヒラリーとテンジンが
登頂し無事に下山したのでした。 
下山したヒラリーは、山頂ではマロリー達が登頂した「形跡」を見つけられなかった、と伝えました。 
実は、その「形跡」として考えられる「ある重要なもの」に世界は
注目していたのです。             
  生前マロリーは、
 登頂に成功した時には頂上に「愛妻ルースの写真」を置いてくる
                   
――と、公言していたのでした。
 
    「君と一緒に頂上の景色を見るよ」

と妻に語っていたとも言われます―――何ともロマンティック!

 余談ですが、マロリーは身体能力に優れたばかりではなく、とても柔軟で均整がとれ、「ギリシャ神のようだ」と形容されていたほどの体格の持ち主だったようです。 
 また、シェイクスピアの「ハムレット」や「リア王」を遠征中も愛読していたというインテリ(知性派)でもありました。 そんな知的でハンサム、そしてロマンティストの彼はさぞやモテたことでしょう。 


 ―――マロリーとアービィンが消息を絶ち75年の歳月が過ぎた1999年5月、世界中を驚かせるニュースが駆け巡ります。
  彼らを捜索するために組織されたアメリカ隊により、ついにジョージ・マロリーの遺体が発見されたのです!
                  (標高 8,160メートル付近) 
そしてその写真はさらに衝撃を与えました。
8,000メートルを越える標高ゆえに、うつぶせのその遺体はほぼ原型をとどめていたのです。
右足に骨折が認められたものの、両手はしっかりと岩肌をつかんでいました。 (滑落姿勢でもあるという)
その彼の姿からは、今なお登らんとする登頂へのすさまじい執念を感じるとともに、人間のロマンや苦難への絶えることのない情熱が伝わるようでした
発見した隊員たちは、その憧れていた伝説の男の聖なる姿に熱いものがこみあげ、丁重に石を積み埋葬したといいます。 
そして、遺留品にも彼の妻の写真はありませんでした・・・・・
(ポケットに入っていたハンカチや手紙、缶詰、マッチ、衣類の一部などの遺品は持ち帰る) 

 現在もなおマロリーとアービィンの登頂の足跡は謎のままですが、当時彼が携行していたカメラ(コダック・ヴェスト)が発見されればいつかはっきりすることでしょう。 

 しかしその結果はどうであれ、高所でのさまざまな装備やデータのある今日とは違った当時の状況であり、なんとセーターにジャケット(!)という今では到底考えられない軽装で  8,200メートルの標高を登っていたという事実。 あらためて彼らの強い勇気と信念に敬意を表するとともに、人間の素晴らしい可能性にただただ感動するばかりです。

 岩肌を両手でしっかりとつかんでいるとはいえ、その静寂の
  「聖地」を与えられたマロリー ・・・
 
      闘いを終えた彼は、まるで母なる大地に抱かれ
                 静かに眠っているようでもあります―――




  新聞記者 「あなたはなぜエべレストに登るのですか?」

  マロリー  「そこに それ (エべレスト) があるからだよ」


               「1923年のあるインタビューにて」


 

  当時の登山靴はまだまだ充実していませんでした。
 厚手の皮ででき、靴底には鋲を打ち付けた粗末なもの
 だったようです。 マロリーの「登山靴」もやはり例外では
 ありませんでした。 しかし、そんなマロリーの愛した茶色い
 靴もまた、彼と一緒にエヴェレストに眠っているのです。
  今回の選曲は、同じジョージ(ハリスン)作曲による
 スリリングなナンバーです♪


  Old Brown Shoe.
  
(数あるビートルズの曲の中でも難易度の高い曲で、
       ポールのベースのフレーズもカッコイイ!) 

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金子 みす ゞ (みすず)

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                          「 イラスト - 20歳の金子みすず 」

 大正時代末期から昭和のはじめにかけて、その創作活動はわずか数年という 

「 幻の童謡詩人 」―― 金子 みすゞ (敬称略)、
今回はその短く悲哀に満ちた彼女の26年の生涯をたどりたいと思います。

                                                     
         
  金子 みすゞ (本名 - 金子 テル)は明治36年(1903年)4月11日、
山口県大津郡仙崎村 (現・長門市仙崎)に金子庄之助、ミチ夫妻の長女として
生まれました。    (その2年後には弟・正祐が誕生)
しかし、明治39年の2月に父・庄之助が亡くなると、弟・正祐は下関市にある
上山文英堂書店支店の店主・上山松蔵、フジ夫妻の養子となる
のでした。

 テルは地元の小学校~そして女学校 (郡立大津高等女学校)へ進みます。 
15歳のとき弟・正祐の育ての親である上山松蔵の妻・フジが亡くなりますが、
翌年縁あって母ミチと松蔵は再婚するのです。 そのためテルは女学校を
卒業後、度々下関の母のもとへ訪れるようになるのでした。
 
 大正12年(1923年)5月、20歳になったテルは下関にある黒川写真館で
写真を撮ります――     (のちにみすゞの代表的な写真となる)
また、母のもとへ移り住むようになり、松蔵の経営する上山文英堂書店支店で
働きだします。 そして、この頃から 「みすゞ」 というペンネームで詩を創作する
ようになり、尊敬する西条八十 (さいじょうやそ)らの児童文学雑誌へ投稿を
始める
のです。 

 しばらくすると、テルが投稿していた作品が次々と雑誌に掲載され
            (「童話」「婦人画報」「婦人倶楽部」「金の星」の四誌)
突如彗星のごとく現れた才能溢れる新人に世間は注目するのでした。 
その感激をテルは「童話」の通信欄へコメントします――
   「~嬉しいのを通り越して泣きたくなりました。」(抜粋)
 掲載にあたり選者でもあった西条八十に
  「若き童謡詩人の中の巨星」 とまで称賛されたテル―― 、
「金子みすゞ」 としての華やかなキャリアをスタートするのです。


    ~ 代表的な作品をご紹介しましょう ~


       「 大 漁 」 

 朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰮の 大漁だ。

 浜は祭りの ようだけど 海のなかでは

 何万の ※鰮のとむらい するだろう


                        「金子みすゞ全集Ⅰ」より
 ※ 鰮 - 鰯(いわし)



     「 星とたんぽぽ 」 

 青いお空の底ふかく、 海の小石のそのように、

 夜がくるまで沈んでる、 昼のお星は眼にみえぬ。

 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。 

 散ってすがれたたんぽぽの、 瓦のすきに、だァまって、

 春のくるまでかくれてる、 つよいその根は眼にみえぬ。

 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。


                        「金子みすゞ全集Ⅱ」より



    「 私と小鳥と鈴と 」

 私が両手をひろげても お空はちっとも飛べないが、

 飛べる小鳥は私のように 地面(じべた)を速くは走れない。

 私がからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、

 あの鳴る鈴は私のように たくさんの唄は知らないよ。

 鈴と、小鳥と、それから私、 
              みんなちがって、 みんないい。


                        「金子みすゞ全集Ⅲ」より




 みすゞが生まれ育った仙崎は漁師の村でした。 
幼い頃から浜や港から聞こえてくる活気ある響きと光景は、みすゞにとって
慣れ親しんだ仙崎の風景でした。 
「大漁」 はそんな日常から生まれた自然な作品なのでしょう。 
しかし、大漁に活気づく光景とは裏腹に、みすゞ自身は魚たちへの 「とむらい」
を感じます
。   魚であっても「親子」がいます、そして漁により「親子」に別れが
生じたことへの切ない想いを彼女はこの作品に込め、供養とともに生命の存在
を感じるのでした。 
 けれどもそれは漁を否定することではなく、食卓に並ぶ魚たちへの感謝を
忘れないという謙虚で慈悲深い姿勢なのでしょう。

 そんなみすゞは目に見えることだけを優先しません。 
「星とたんぽぽ」では、普通の状況では見ることの出来ない 「海中の小石」
「昼間の星」、そして「地中の根」 を心の眼でとらえてその存在を示します。 
それはむしろ、多くの見えないものに抱かれた世界によって、生命は守られ
生かされているのだ
、という悟りにも似た視点から詠まれたスケールの大きい
彼女からのメッセージのような気がします。

 世の中には背の高い人もいれば低い人もいて、スポーツの得意な人がいれば
苦手の人もいます。 接客が苦手でも、山登りなら誰にも負けないくらい得意な
人もまたいるのです。 
 こうしたさまざまな特性を持った人達が同じ地球上で共生しています。 
そんな当然でありながらあらためて表現することの難しい内容を、
「私と小鳥と鈴と」ではいとも簡単に童謡の唄としてのせているのです。 
 それぞれの長所を尊重し合ってお互いを補い、その違った特性から思いやりが
育まれる――
     偏見するのではなく個性の認識が大切なのだ 、と。

 過剰な競争社会と言われる現代にあって、そうしたかけがえのないあらゆる
ものへの温かい認識と慈悲深い姿勢は、みすゞのもつ一番の 「特性」 であり、
ひとりひとりが本来備えている 「人間性」――、現代に生きる我々はもう一度
見つめなおす必要があるのかも知れません
。 
 512編という彼女の作品の数々からは、憂いや切なさを感じながらも、広大で
柔軟な視点での生命への畏敬の念を「素朴で親しみやすい言葉」に置き換えた
温かく優れた 「言霊」 (ことだま)を感じずにはいられないのです。

 そんな才気溢れるみすゞですが、結婚を境に人生が一転してしまいます。
大正15年の2月、年頃でもある彼女は周囲のすすめもあり書店の番頭格で
あった男性と一緒になります。 
 しかし、その夫は放蕩癖があり、度々浮気をしてはみすゞを困らせます。 
文学への理解もない夫は、ついにみすゞに対しても詩の投稿仲間との文通や
投稿そのものを禁じてしまう
のです。 

  愛娘 ふさえ(愛称・ふうちゃん)を授かりますが、もはや娘だけが生きる目的
のような状態に追い詰められます。 辛く悲しい状況の中、彼女は昭和4年の
暮れ頃から娘ふさえの言葉を綴り始めます。 
日々健気に成長していく娘を見守りながら、一瞬でも幼いわが子の天使の
ような振る舞い、言動を逃すまいと翌年2月まで綴られた詩は347編にも
及んだのです―― 「 南京玉 」

 昭和5年2月27日、夫との離婚が成立しました。 
娘と一から出直す決意をしていた矢先、その元夫は娘ふさえの親権を要求して
くる
のです・・・・・ 。 残念ながら、当時の男性上位の時代では女性の主張は
なかなか認められなかったのです――

愛してやまない大切な娘を明日には手離さなくてはならなくなった3月9日、
みすゞは下関の三好写真館で一枚の写真を撮ります。 
ふさえとではなく、みすゞ一人での撮影でした。 

 その夜、いつものように楽しくふうちゃんと入浴するみすゞ――
明日には会えなくなる娘――
(珍しく童謡をいくつも唄ってあげていた、と母ミチは当時を回想します。) 
 入浴後、皆で桜もちを食べて過ごし、
              普段と変わらない朝を迎えるはずでした―――


   翌朝、母ミチは静かに冷たくなっていたみすゞを見つけるのです

――3通の遺書と3冊の遺稿、
             そして前日に撮った写真の預り証とともに―――

 
 それから長い歳月が過ぎ、半ば人々の記憶から忘れられていた 天才・童謡
詩人 「金子みすゞ」 は、児童文学者・矢崎節夫氏との「出会い」によって再び
表舞台へ登場することになります。 
矢崎氏は大学1年の時に「日本童謡集」(岩波文庫)に載せられていた「大漁」
に衝撃を受け、以来それまで散逸していたみすゞの作品を全て収集するため
に奔走する
のです。 昭和57年(1982年)、矢崎氏は東京で生存している
みすゞの弟・正祐氏を奇跡的に探し出します。 
  ついに金子みすゞの全512編の作品が揃うのでした――

 そして、2年後には「金子みすゞ全集」(JULA出版局)が出版され、以来
現在まで多くの人々に感動をもたらしていくのです。 
 平成8年(1996年)からは小学校国語教科書などにも扱われ、 全国の
子供達がみすゞの作品にふれられるように
なりました。  

 その辛い境遇から
         「薄幸の童謡詩人」とも呼ばれた金子みすゞ――
  彼女の魂のこもった童謡は半世紀の年月を経て開花したのです。


  母ミチが記憶している
         「あの夜」のみすゞの最後の言葉があります――

       「 ふうちゃん、可愛い顔して寝てるね。」 

                    
                                      「 敬称略 」



         「金子みすゞ記念館」

         「JULA出版局」

         「金子みすゞ童謡集」 (朗読)



 ※ 文章中に引用されている詩は「金子みすゞ全集」
             (JULA出版局)から出典致しました。 
  なお、上記3作品は 「金子みすゞ著作保存会」 の許可を得て
 掲載しています。  転載される場合は、必ず
 「金子みすゞ著作保存会」 の許可を得てください。
 <連絡先> 〒171-0033 東京都豊島区高田 3-3-22 
                       JULA出版局内
  TEL.. 03-3200-7795  FAX. 03-3200-7728      
◇ 参考文献 : 矢崎節夫 著 「童謡詩人 金子みすゞの生涯」
                                                    (JULA出版局)



 時空を超え、現代の我々に深い感銘を与える金子みすゞさん。
その純粋で素朴な「 言葉 」からは、あらゆるものへの温かい愛情を感じ
させます。 それはジョン・レノンのこのソロ作品からも感じることが出来る
かも知れません。

  ☆  Love.   
    ( シンプルな歌詞とメロディーは、どんな複雑な曲よりも雄弁に
      その本質を照らし出しますね~♪)

金子みすゞ南京玉―娘ふさえ・三歳の言葉の記録 Book 金子みすゞ南京玉―娘ふさえ・三歳の言葉の記録

著者:矢崎 節夫,金子 みすゞ,上村 ふさえ
販売元:JULA出版局
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 ☆ 愛娘ふさえを優しく見守りながら綴った、
               母みすゞの愛情溢れる作品集。
 無邪気なふうちゃんの愛らしさに微笑み、
             そして切なくもなる素敵な一冊です。


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 シーボルト

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今から140年前、日本をこよなく愛したひとりのドイツ人医師が亡くなりました。  
博物学者としても知られるシーボルト、
 ――今回はその親日家であった彼の生涯をたどりたいと思います。


                 

                              「イラスト - 晩年のシーボルト」

 フィリップ・フランツ・シーボルトは1796年2月、ドイツ・バイエルン州ヴェルツブルクで生まれました。 幼い頃からいろいろなものに興味を示す子供だったようです。 
1815年、ヴェルツブルク大学に入学し医学を専攻しますが、他にも地理や
植物、民族などさまざまな分野にも関心は高かったといいます。 そして
この生来の強い探究心が、その後歴史の表舞台に彼を登場させるのです。

 1822年6月、当時西洋医学の高い知識と技術を備えていたシーボルトは、
オランダ領東インド陸軍外科医に任命されます。 そして、翌年8月には
周囲の協力のもと、長崎出島のオランダ商館医として来日――、
 シーボルト27歳の夏でした。

 シーボルトは医者という立場でしたが、日本への関心が人一倍強い人物
でした。 また、当時オランダは貿易相手国の日本をさらに知ることで日本
の地理や産物、文化などを分析し、商品を揃える必要
がありました。   
 つまり、オランダ政府から見ればそんなシーボルトはまさに適任であり、
うってつけの存在だったのです。 

 彼は商館員の健康管理の維持に努めていましたが、特例により出島以外
での活動(診察や薬草の採集など)を許可されていました。そんなある日、
診察に来ていた16歳の楠本 滝と知り合います――互いに惹かれあう二人
――恋におち、結婚するまでにそう時間はかかりませんでした・・・。

 1824年に入ると、長崎郊外の民家を購入し、日本人の医学の門下生達
へ西洋医学の講義を行います
。(鳴滝塾) 
また、門弟達にさまざまな課題(歴史、地理、生物、文化などなど)を与え
オランダ語でレポート提出させるなど、効率よく「日本」のデータを収集し
研究に役立てます。 
彼の研究は多岐に渡りますが、中でも植物学には思い入れが強くオランダ
へはさまざまな種類の種子を送っています。 
 (のちに刊行する「日本植物誌」により紹介されることになる、妻 “お滝さん”
   から命名したアジサイの学名――「ハイランドゲア・オタクサ」は有名)
 1827年5月、愛する“お滝さん”との間に愛娘 イネ(おいね)が誕生――
この数年間がシーボルトの日本でのもっとも幸せなひとときだったのでしょう。

翌1828年、来日して5年の任期を終えたシーボルトに災難がふりかかります。
 帰国の途につくシーボルト一行を乗せた船(ハウトマン号)が、おりからの
暴風雨により長崎湾で座礁してしまいます。 
そして積み荷から、当時国外へは持ち出しが禁止されていた日本地図や
葵の御紋の入った羽織などさまざまな物品が見つかり没収されるのです
――
                 (シーボルト事件
こうしたことから他国のスパイではないかなどの疑いをかけられ、約1年も
取調べを受けるのです。 その間、自責の念にかられ自暴自棄になる
シーボルトをお滝は懸命に支えるのでした。 

 1829年10月、ついに判決が下り国外追放の身となったシーボルト――
お滝とイネは法律上 連れていくことが出来ず、門人の二宮敬作らに二人の
身を預けます。 
     そして、失意のまま長崎を後にするのでした・・・・・。

 帰国後、シーボルトはその膨大な日本での研究成果をまとめ始めます。  
  集大成とも云える三部作~
「日本」、「日本植物誌」、 「日本動物誌」の刊行を開始するのです。 
また、その他日本についての詳細なデータ満載の彼のコレクションの評価は
高く、オランダ政府はそれら資料を買い上げるに至るのでした。 

日本を離れてからもずっとお滝やイネを想い続けていたシーボルトでしたが、
1845年にベルリンでヘレーネという女性と再婚――
    3男2女に恵まれます・・・。
 
 1840年のアヘン戦争辺りから見られる、欧米によるアジアに対する「開国」
への積極的な動きを危惧したシーボルトは日本の立場を心配し、オランダ
政府や親交のあったアメリカのペリー提督へ向けて、「平和的な開国を」という
旨を進言した
といいます。 
ペリーは1853年に日本へ訪れる前に、シーボルトやケンペル
                            (ドイツの博物学者・医学者)
の著書を熟読し、日本の文化や心情を研究していたと言われています。

 そんな「黒船来航」から6年が経った1859年8月、シーボルトはオランダ
貿易会社顧問として再び長崎の地を踏むのです。
                (長男・アレキサンダーを連れて) 
30年の時を越えて、お滝やイネ、そして恩人となった二宮敬作らと感動の
再会を果たすのでした
――「君たちを忘れたことはなかったよ」 と。 
 出島に戻ると貿易会社での仕事の傍ら、かつて開いていた「鳴滝塾」の
民家を買い戻し診察を行うようになります。 
――3年後の1862年4月、幕府顧問を解雇されるとそのまま帰国――
   この時が日本での最後となりました。

 帰国後は官職を退職し、故郷ヴェルツブルクに戻ります――
                            (のち、ミュンヘンへ移る)
そして1866年10月18日、その人生をかけて日本の研究や医療などに
尽力したシーボルトは70年の生涯を閉じました。
 
彼の研究成果が凝縮された書物とさまざまなコレクションは、欧米をはじめ
世界各国に極東の神秘の国 「ニッポン」を充分に紹介し、認知されるきっかけ
をもたらしました
。 
また、長崎での門弟から二宮敬作や高野長英などの優秀な医学者・蘭学者を
多数輩出するなど、育成への努力を惜しむことはありませんでした。 
娘のイネも二宮敬作らに師事し、立派な産科医となり日本初の女医として
評価されていきます。 
     (公には荻野吟子が女医第1号である)

 その後、イネは父 シーボルトの残した鳴滝の土地の確保や保存に努めます。
 ~現在、シーボルト記念館が跡地とともに現存し観光客でにぎわいを見せ
ますが、これらはイネの熱意ある尽力の 功績とも言えるのでしょう。 

長崎の街並みを一望できる皓台寺に、
        イネは母・滝そして恩師・二宮敬作と並んで静かに眠っています

毎年6月になると長崎市の花でもあり、
        シーボルトの好きだったアジサイ――「オタクサ」
                 人々をそっと見守るように優しく咲き誇るそうです。

                               (敬称略)

  ☆  シーボルト記念館

  ☆  黄昏呆助さんのサイト記事 (荻野吟子、楠本 イネ)

  ☆  ぴのさんのサイト記事 (シーボルト事件)

 

 長崎で出逢った頃、「お滝さん」と何度も愛しく呼んだであろう
        シーボルトを想像しました――
    今回はジョン・レノン十代のときの作品、
              ~恋する気持ちは抑えられない?!

 ☆  I Call Your Name.
  (12弦ギターと間奏でのリズムが粋な、元気いっぱいの曲♪)

花の塗り絵―誰でも簡単に塗れる名画、豪華16枚 初公開!幻のシーボルト・日本植物コレクションより Book 花の塗り絵―誰でも簡単に塗れる名画、豪華16枚 初公開!幻のシーボルト・日本植物コレクションより

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 ☆ シーボルトの愛した植物を見つめながら
           自分色に完成出来るワンランク上のぬりえです!

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 白州 次郎

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                            「 イラスト - 49歳頃の 白州 次郎 」

 もうす ぐ61回目の終戦記念日です。 
戦後の6年間、日本はまだ占領下にありました。
  1951年9月の サンフランシスコ講和会議において正式に独立が認められるまで
にはさまざまな人達の尽力があったのです。
 
                                                      

  中でも異色な魅力を放つ「白州 次郎」(しらす じろう - 敬称略)について
 話したいと思います。 
白州次郎は1902年2月、現:兵庫県芦屋市の貿易商に生まれます。 
裕福な家系で育ち、17歳から9年間をイギリス・ケンブリッジ大学で過ごし、
本場の語学と紳士道を学ぶ
のです。 また、在学中には高級車ベントレーを
乗り回すなど、ここでの貴重な経験がのちの彼の人生の指針となるのでした。

 帰国後には樺山伯爵家令嬢の正子(のち作家、随筆家)を紹介され互いに
ひとめぼれ~のちの有名な白州次郎・正子夫妻が誕生するのです。 
白洲家は経済的な問題に遭いながらも、その後白州はいくつかの会社の
取締役を歴任するなどして過ごしました。 

 ~私が初めてこの白州次郎という人物を知ったのは4~5年程前だった
と思います。 友人から「プリンシプルのない日本人」という本(彼唯一の著書)
を受け取ったのです。 何気に読み始めた私はその内容にどんどん引き込ま
れていきました。  「当時、こんな日本人がいたのか!」 
                              ~と正直驚いたものです。 
彼についてよくご存知の方もいらっしゃると思いますが、終戦記念日を控えた
今 、  あらためて記事にしたいと筆を執りました。

 日本が戦争に敗れてまだ間もない1945年(昭和20年)12月、当時外務大臣
であった吉田 茂の要請を受け、マッカーサーを最高司令官とするGHQ
                                   
(連合国軍総司令部)
との窓口となる役職(終戦連絡中央事務局参与)に白州次郎は就任しました。
 (吉田が“正子を通じて”親交のあった白州を、欧米の事情に精通し語学も
     優れている
ことから抜擢したと言われる)  
       
       そんな白州に最大の仕事が訪れます―― 。

 マッカーサー草案に基づき作成された日本国憲法の草案の翻訳白州を
中心として行われました。 日本側が作成した草案は却下され、半ば一方的に
GHQが一週間ほどで作成した憲法草案を翻訳せざるを得ないという屈辱的な
状況での翻訳でした。 
のちに白州は著書で 、
「占領中のアメリカが作成したものではなく、国民の総意でつくるものだと思う
         ~我々がつくった我々の憲法がほしいのだ」
 
     と苦々しく語っています。 

 この時期、白州の人柄を示す堂々とした有名なエピソードがあります。 
敗戦の年のクリスマス、白州は天皇からの届け物をマッカーサーへ持参しました。
 折りしもテーブルの上は他のプレゼントでいっぱい――マッカーサーは
あろうことか天皇からの品を 「その辺に置いてくれ」という仕草で示したのです。
  白州は激高しました、  
  「天皇陛下の贈り物を、その辺に置けとは何事か!」 
  マッカーサーは慌てて新しいテーブルを用意しました。  
(今年4月、「マッカーサーを叱った男」としてNHKでも放映されましたね)

 また、GHQの高官(民政局長)であったホイットニーからお世辞で
「あなたの英語はお上手ですね」と言われると、すかさず
   「あなたも、もう少し勉強すれば一流になりますよ」
  ときり返したと言います。 ここにも彼の持論であった  
   「戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない」
    という気概が感じられますね。 
 白州はこうした言動や堂々とした体格(185センチの長身)、  そして
イギリスで学んだ紳士的な物腰から~「従順ならざる唯一の日本人」として、
GHQに一目置かれる存在だったのです。

  1951年(昭和26年)9月8日、日本が7年ぶりに主権を回復する
サンフランシスコ講和会議の席上、首相・吉田 茂の受諾演説は「日本語」で
行われました。 当初GHQから用意されていた原稿は英文でしたが、同行して
いた白州はここでも“気概”を示しました。 
いまや主権を取り戻した日本の誇りと面子(メンツ)を込めて、吉田首相に
「日本語」で読むことを進言したのです。
 
  ~独立が正式に叶ったこの夜、白州は男泣きに泣いたそうです~ 

 その後の白州は意外な人生の進路を選択します。 まるで政界での役目を
終えたかのように吉田 茂の退陣とともに身を引き、 東北電力の会長になる
など実業界に身を置くのです。 こういった先見性や権力にこだわらない自由
な思想は、かの坂本龍馬と白州はよく比較されたりしましたが、個人的には
「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」の長州の革命児~高杉晋作を
連想させます


  晩年は留学時から親しんでいたゴルフ好きが高じて、1976年に
軽井沢ゴルフ倶楽部」理事長を務めますが、ここでも権力者に対し厳しく
接する有名なエピソードを残します。 
~ある時、車のドアを開け運転手に靴ひもを結ばせている会員がいました。
 それを見ていた白州は烈火のごとく言ったのです。
      「おまえは手がないのか!」
 また、 ある時の首相がSP(警護)や新聞記者を引き連れて訪れた時、
入場の許可を求めにきた秘書に――
     「会員以外は立ち入り禁止だ!」と厳しく突っぱねました。
 こうしたマナーの悪い者へは首相と言えど容赦なく一喝する一方、
礼儀正しいメンバーへは優しかったと言います。

  白州の死後、当時のキャディさん達に思い出話を取材すると、
「本当に優しい方だった・・・」 と涙ぐんだそうです。 
いかにも「プリンシプル」(原理原則、信条)を念頭に、権力に驕る(おごる)
ことなく筋の通った行動をしていた彼らしい逸話でした。

 80歳まで愛車のポルシェ911に乗り、静かに しかしさっそうと悠々自適に
過ごしていた白州は 1985年(昭和60年)11月、風のようにその83年の生涯
を終えました・・・・・
 彼が愛妻の正子と大戦中から40年以上も住んでいた旧白州邸   
~「武相荘」(ぶあいそう)が一般公開されており、(館長は長女・桂子)
生前の白州次郎・正子夫妻を偲ぶ多くの方が訪れているそうです。

             「武相荘」(ホーム・ページ)
 
 今、静かに注目されている白州次郎~混迷する現在の政局に
   彼のような政治家を待望する表れなのかも知れません
      
――プリンシプルを実践する政治家を・・・・・

 今回は白州次郎の生きざま同様、「粋で型破り」な名曲を選曲!

 ☆ A Day In The Life.
  (オーケストラによる壮大なサウンドは時空を超える?!)


風の男 白洲次郎 Book 風の男 白洲次郎

著者:青柳 恵介
販売元:新潮社
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 ☆ 「日本で最初にジーンズをはいた男」
     とも言われる、掟破りのナイス・ガイ、
      風の男~白州 次郎の伝記!

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 アムンゼン

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            「イラスト - アムンゼンと南極のオーロラ」

 1911年12月14日ノルウェーの探険家ロアルド・アムンゼンは人類初の南極点到達をはたしました。   しかし、その到達という歴史的快挙に至るにはさまざまな過酷な闘いがあったのです。

 1872年、ノルウェー・オスロ近郊で生まれたアムンゼンは、幼少期に「北極探険史」(ジョン・フランクリン著)を読み、極地探険家を志したといいます。 成長しオスロ大学で医学を学びますが探険への夢を諦めきれず、1897年ベルギーの探険隊(ベルギカ号)に加わり経験を積みます。 これらは結果的にすべて来たる「その日」に備えてのアムンゼンの準備となったわけなのですが・・・

 彼はその小さい頃からの夢であった「北極点到達」を実現すべく、同じノルウェー出身の探険家ナンセンから「フラム号」を借りると、北極へ向けての準備を進めるのでした。 そんな矢先、アメリカのピアリーが北極点へ到達した(1909年4月6日)という知らせを受けます。 動揺を隠し切れないアムンゼンでしたが、密かに南極点へ目標を変更し、モロッコの西、マディラ島付近まで航行した時に初めて乗員達へ南極点を目指すことを宣言します。 この時、乗員達はうすうす感じていたのか大喜びで賛同したといいます。 そして、南極を先に目指していたイギリスのスコット隊に早速電報を打つのでした。「我らもまた、南極へ向かう」 と。 

 電報を受けながらも、当初は南極の調査などでデータの豊富なスコット隊にとって、まるでデータに乏しいノルウェーのアムンゼンはさほど眼中にありませんでした。 データに沿って事を進めれば順調に極点への到達は実現出来ると考えていたのです。しかしスコット達にとって現実には厳しいスケジュールでした。学術調査をしながら極点へ向かう計画であったため、その往復距離はざっと3,000kmを超える大掛かりな調査となるものでした。    これは北海道の稚内から沖縄南端(石垣島など)までに匹敵する距離です。 

 一方のアムンゼンは南極点を目指すのみ、というはっきりした目的があったため、デポ(要所ごとに食糧や荷物を貯蔵する所)のポイントも明確にすることが出来ていたのです。 この目的への明確な計画や意識の点も、その後の両隊の運命を分けてしまうことになるのでした。

 アムンゼンは少年の頃から北極探険への憧れもあり、体力作りも行っていました。 また、冬でも部屋の窓を開けては耐寒訓練をしたり、船舶の資格を取るなど航海術も学び、エスキモーからは極地での行動の仕方を吸収していたのです。 ~準備は万全でした。

 1911年、南極も昼の期間が訪れると(南極では12~3月が夏の時期とされる)、いよいよ両隊は探険へ向けて出発を急ぎます。 アムンゼン隊はエスキモー犬約50頭とソリに分乗し、スコット隊は耐寒馬10頭と雪上車(電動ソリ)で出発。 ここに国の威信とプライドを懸けた人類史上最も長く過酷なレースが始まったのです。

 夏の時期とは言え、南極は気温マイナス30℃の世界であり、ひとたびブリザードになれば気温もさらに下がり、また視界も遮られる極限の世界!  それはのちにスコットの日記に記されていた   「極点への到達という名誉でもなければ、ここはとても恐ろしい場所・・・」 という記述にも表れているのでしょう。 

 レースが始まり一週間もすると、両隊の明暗は早くも現れます。 スコット隊の雪上車が故障し、寒さに強いはずの馬が次から次へと倒れていくのです。 結局、往路の半分を過ぎたところで頼みの馬が全滅してしまいます。 そしてこれは、300kg というソリを人力で曳くことになったことを意味しました。 悲劇の前兆とも思える致命的な出来事だったのです。 (後の分析では、この時に引き返していたとしたらスコット隊は全員生還出来たと言われている) 

 アムンゼンも時折ブリザードに悩まされながらも犬ゾリやスキーを活用し、徐々に極点へ近付いていました。 そしてついに、1911年12月14日アムンゼン隊は南極点に到達し、ノルウェーの国旗をそのポイントに翻すのでした!  冷静に正確な位置を計測し終え、「我々は1月25日には基地に帰るぞ」と隊員達に指示を出すとまっすぐ帰路につきます。(事実、1月25日に予定通り戻ります) 

 スコット隊は天候の悪化と体力の消耗でなかなか前進出来ませんでしたが、1912年1月17日ついに彼らも極点に到着するのです。 しかし、そこで彼らが見たものは、ノルウェー国旗とアムンゼンの残していった小さなテント(中には食糧と手紙が入っていたとされる)でした。 スコット一行は失意とともに帰路につくしかありませんでした。(その時の写真が残っていますが、がっかりと肩を落としたスコット隊が写っています) 

 その後のスコット隊はもう悲劇としか言いようがありません・・・  2月に入ると凍傷により一人が亡くなり、3月には一人が行方不明(覚悟の自殺といわれる)、残ったスコット達3人もブリザードと寒さ、そして体力の消耗で再びそこから動くことは出来ませんでした・・・近くのデポまであと18kmというところだったのです。   ――同年11月の捜索で発見された時、テント内には学術調査資料がきちんと並べられていたといいます。
 ――3月29日の最後の日記のページとともに・・・・・

 こうしてアムンゼンが南極点を制覇し 、男たちの生死をかけたドラマは幕を閉じたのです。 ちなみに、同時期に少し遅れて日本の白瀬 (のぶ)が南極点を目指していましたが、残念ながら途中で断念しています。 (日露戦争での勝利とこの白瀬の勇敢な挑戦は、当時世界に日本の存在をあらためて知らしめたと言われる) 

 その後のアムンゼンは、1925年に資産家のエルズワースと飛行艇で北極探険に挑んだり(これは失敗に終わる)、翌1926年には飛行船「ノルゲ号」で北極海横断飛行に成功します。 相変わらず極地探険家の第一人者として活動していました。  しかし、このノルゲ号による成功を、一緒に飛行していたイタリア人探険家  「ノビレ」が成功を独り占めにする行為に出たことで、二人は絶縁し不仲になります。 

 そんな中、1928年6月そのノビレの乗った飛行船が北極探険中に遭難してしまいます。 この時アムンゼンはそれまでの不和を断ち切るようにノビレ救出に向かうのでした。それは同じ探険家として極限状態を誰よりも知っていたからだとも、彼本来の紳士的な優しさからだとも言われます。その結果、ノビレは無事に救助されましたが、アムンゼンは二度と戻ることはありませんでした・・・・・ 資料では救助に向かった当日、スピッツベルゲン付近で消息を絶った、とあります。――同年10月、彼の乗っていた飛行艇の破片がノルウェー沖で見つかるのでした・・・

 「探険家は自宅では死なないものだ」 と何かで読んだことがあります。 彼ら探険家の行動には単に名声を得たいから、だけでは説明のつかないものがありますが、ひとつ言えることは、未開地への探究心が誰よりも強く行動的であるということでしょうか。 
アムンゼンにしても彼の顔に深く刻まれたシワは、何度も極限を生き抜いてきた証しでもあり、その純粋な瞳には未知への限りない好奇心が秘められていたのでしょう。 
 
~そこには何故かうらやましいくらいの
                  「男」を感じざるを得ないのです~


 
 ♪今日の選曲は、なんとも哀愁の男を感じるジョージの名曲です♪

 ☆ While My Guitar Gently Weeps.
    (ホワイト・アルバム収録の言わずと知れた名曲!~エリック・クラプトンの弾くリード・ギターが哀愁ある泣きのギターとして有名ですね~!)

アムンゼン―極地探検家の栄光と悲劇 Book アムンゼン―極地探検家の栄光と悲劇

著者:新関 岳雄,松谷 健二,エドワール・カリック
販売元:白水社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 ☆ その人生を未知への探究に費やしたアムンゼン~彼の劇的な生涯を綴る1967年著作の貴重な復刻版!

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 ガガーリン

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今日7月7日は「七夕」です。 星の世界では年に一度の大イベントですが、今から45年前にも人々が「空」に注目したある重要な出来事がありました。 人類史上初めて宇宙空間へ飛び立った人物~ガガーリンが有人飛行に成功した記念すべき出来事です。                        「イラスト - 戦闘機にて飛行訓練時のガガーリン」

 ユーリ・ガガーリンは1934年3月9日、旧ソ連(現ロシア共和国)グジャーツク市(現ガガーリン市)クリュシノで生まれます。 両親はコルホーズ(集団農場)の労働者でした。 幼少期は第二次世界大戦の真っ只中で、彼の住む地域へもドイツ軍が攻め込み、防空壕での暮らしを余儀なくされたと言います。 

 やがて終戦を迎え中学を卒業すると、工業技術を学ぶためにサラトフにある学校へ通います。 エアロ・クラブに入り飛行への関心が高まると、1955年にオレンブルグ航空士官学校に入学、航空学を学びます。 そして、在学中の1957年に彼の人生を左右する二つの出来事が訪れます。 ひとつはオレンブルグで出会ったバレンチナ・ゴリチェバとの結婚~そしてもうひとつは、世界を驚愕させた人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げの成功です。

 当時の冷戦下では、主にソビエトとアメリカという超大国が宇宙開発競争を展開しつつありました。  宇宙開発はイコール軍事開発競争であり、両国ともいかに先に衛星の打ち上げを成功させるかという「分刻み」でしのぎを削っていたのです。 そして1957年10月4日のソビエトによるこの人工衛星打ち上げ成功は、世界に(アメリカに)衝撃を与えることになったのです。(スプートニク・ショック) 

 ソビエトの開発研究チームはセルゲイ・コロリョフを中心として、またアメリカはドイツから亡命したフォン・ブラウンを中心とした組織による熾烈な開発競争でした。 これはそれぞれの国の威信もさることながら、兵器利用が可能となることによる脅威を示すため、スプートニクの成功はアメリカを始めとする西側陣営を驚愕させたのでした。  そして、アメリカは翌1958年1月に何とか「エクスプローラー1号」を打ち上げますが、この時点ではソビエトが一歩も二歩もリードしていたのです。 

 そんな世界的な出来事によって、ガガーリンが宇宙への興味をどんどん増幅させていったということは想像に難くありません。 当然ソビエトはアメリカを突き放すために次なる計画である「有人飛行」を進めます~。 宇宙船の開発をすすめる一方、優秀な宇宙飛行士が必要になり20人の候補生が公募により集められます~その中に若きガガーリンの姿がありました。  それから約9ヶ月間にわたる精神的・肉体的な厳しい訓練を受け、徐々に人数は絞られていきます。 最終的に2人が残され、見事ガガーリンが歴史的な宇宙飛行士のチャンスをつかむのでした。 (選考については、ガガーリンが158センチと小柄であったためとか、彼の人間性をコロリョフが気に入ったとか諸説ありましたね~)

 かくして1961年4月12日午前9時7分、ガガーリンとソビエトの野望を乗せた「ボストーク1号」がヴァイコヌール宇宙基地より飛び立ちました。 そのまま順調に地球周回軌道に入ると、そこは人類が初めて目にする宇宙空間~ガガーリンはどんな気持ちだったのでしょう~有名な「地球は青かった」という発言にもまた諸説あり、本当は「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」という文学的な表現だったとも言われます。 

 ともあれ順調でしたが、実際には宇宙空間での機器類が正常に作動しているか、体調に異変を感じないか、など地上との交信も任務であり、ゆっくりと地球を眺めることは難しかったのかも知れません。 そんな中、国営タス通信のニュースでガガーリンの大尉から少佐への昇進が伝えられ、彼本人も喜びます。 やがて地球を一周するころ予定通り大気圏に突入し、サラトフ近郊の畑に無事降り立ち帰還を果たすのでした~108分という短時間でしたが、人類が宇宙空間へ行き、計画通りに無事帰還したという大成功だったのです。 

帰還後は盛大なパレードが行われ、時のフルシチョフ書記長と対面し、また世界各国をソビエト宇宙開発の「広告塔」として訪問します。~こうしてアメリカはまたしても屈辱を味わいますが、数年後に時代の流れが変わるとはこの時誰も知る由もなかったのでした。 

 1966年にソビエトの宇宙開発をリードしてきたコロリョフが病に倒れます。 この頃からすでに暗雲が垂れ込めていたのでしょうか、~1968年3月27日、2度目の宇宙飛行のため ミグ-15での飛行訓練をしていた最中、ガガーリンは墜落して同乗していた教官とともに帰らぬ人になります。(享年34歳) あまりの突然のことで、当時しばらくは誰もその事実を認めなかったと言います。
 後に事故原因もいくつか挙げられましたが、どれも確証に乏しく謎の残る最期となってしまいました。 国策とは言え労働者階級出身のガガーリンが成し遂げた人類初の有人飛行~(政治的戦略を除けば)彼が人々に夢とロマンを与え、来るべき次世代の宇宙時代への希望の光を灯したヒーローに変わりはないのです。

 ボストーク1号から2年後の1963年6月16日、「ボストーク6号」により世界初の女性宇宙飛行士となったテレシコワ」~彼女もまた「私はカモメ」~という名文句とともに歴史に名を残しました。(「私はカモメ」については、多々誤解もあるのですが・・・)     そしてアメリカも紆余曲折を経て、1969年の「アポロ11号の月面着陸」へと至るのです。

 1981年4月12日、ガガーリンのボストーク1号からちょうど20年のその日、新しい宇宙開発の時代が始まります~アメリカのスペース・シャトル(再利用型宇宙往還機)の初飛行が行われたのです。 依然、冷戦は続いていましたが、ガガーリンの偉業を讃えたこの日を「人類共通の宇宙記念日」と認識してのシャトルの飛行は、技術だけではなく意識面でも新しい段階に入ったことを予感させるアプローチでした。 1989年、東西冷戦の象徴でもあった「ベルリンの壁」の崩壊により、時のゴルバチョフによるペレストロイカは実を結びます~。 1990年には日本人初となる宇宙飛行士として、ジャーナリスト・秋山豊寛さんがソユーズに乗船するなど、各国の協力が得られる開発の姿がそこには存在してきたのです。

 ここ数年は残念ながら、記憶に新しいイラク戦争やロシアからの独立に伴う内戦、テロによる緊張、そして「北」の不穏な動きなどで「きな臭い国際情勢」となっています。 さまざまな事情で国際宇宙ステーションなどの建設もなかなか進まないようですが、せめて国家間のひずみは宇宙開発に影響を与えないような協力はしてほしいものです。 ガガーリンをはじめ多くの宇宙飛行士たちは、宇宙から見た地球がとても美しくかけがえのない生命の星と感じ、神聖な力を感じたそうです~争いのない、共存するという平和な暮らしを一番望んでいるのは、他でもない地球なのかも知れません~。

 
 今回は「七夕」であり、我らが(?)リンゴ・スターの誕生日でもありますので、この曲を選曲します~!

 ☆ With A Little Help From My Friends.
  (あのサージェント~の2曲目に挿入され、リンゴのヴォーカル曲としては1,2位を争う人気の曲です~リンゴにぴったりの作品ですね!)

20世紀の巨人 偉人列伝 リンドバーグ~ガガーリン他 空と宇宙 DVD 20世紀の巨人 偉人列伝 リンドバーグ~ガガーリン他 空と宇宙

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 ☆ ガガーリンをはじめ、リンドバーグやアームストロングなど、人類の夢とロマンである「空」を目指した男たちのドキュメンタリー!
 
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 野口 英世

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 今年生誕130年を迎える日本を代表する医学者がいます――野口英世(敬称略)
です。 彼は日本人なら誰でも知っている偉人ですが、数々の研究成果を挙げた
世界的な権威ある医学者というだけではなく、個性的な側面を持った人間らしい人物
でもあったのです。
             「イラスト - エクアドルで病原体を特定した頃の 野口 英世 」
                                      (1918年頃)

 1876年(明治9年)11月9日、野口英世(幼名:清作)は福島県翁島村
(現:猪苗代町)の貧しい農家の長男として生まれました。 
1歳半の春、まだ幼い英世は囲炉裏に落ちてしまい、左手に大火傷を負うという
人生を左右する事故に遭います。 当時、農家の作業は今よりもさらに手作業
中心の体力仕事でした。 それゆえ、長男の身体にハンデとなる火傷を不注意
とはいえもたらしてしまった母(シカ)は、大変悔やんだといいます。 
そんな母の気持ちを幼な心にも感じたのか、英世はその後幼少期に度々起こる
いじめにも耐えながら、学問に専念しようと誓うのでした。

 そうした英世の努力もあってか成績は優秀で、生長という生徒会長的な役割
を担い、先生の代わりに授業を教えることもあったようです。 
そして、当時の恩師である小林栄の援助もあり、経済的に苦しい英世もなんとか
猪苗代高等小学校へ入学出来たのでした。 
在学中、会津若松の会陽医院(現:野口英世 青春館)で左手の手術を受けます。
 そしてその出来事が英世を医学に目覚めさせ、医学者としての道を志す
きっかけとなる
のです。 

 その後、会陽医院で縁を得た高山歯科医学(現:東京歯科大学)の
血脇守之助先生のもとで医学を学びます。 
 猛勉強の末、20歳で医師免許取得~1898年、北里伝染病研究所で勤務を
始めるのです。 (この頃、英世に改名する) 
ある日、来日していたサイモン・フレキスナー(アメリカの細菌学者)が研究所へ
訪れます。 
案内役であった英世は親交を深め、1900年にはそのフレキスナーを頼りに
大志を抱いた青年は渡米
するのです――、この時 英世 - 24歳。
                (渡米費用は小林、血脇先生などの援助による

 英世はペンシルバニア大学医学部で助手として蛇毒の研究を始めます。
                                (1900~3年) 
1903年からは1年ほどデンマークへ留学(マッセン博士に師事)~帰米して
からは、ロックフェラー医学研究所(現:ロックフェラー大学)にて一等助手として
梅毒の研究をすすめ~1911年2月、ついに梅毒スピロヘータの純粋培養に
成功
します。 (4月にはメリー・ダージスと結婚)  
寝食を忘れるほど研究に没頭し、この数年間で蛇毒や梅毒、、小児麻痺など
について次々と論文を発表
します。 
その研究ぶりは、周りの研究員達からは「野口はいつ寝ているのか?」
 とささやかれたほどでした。

 1915年(大正4年)9月、久々に日本に帰国する英世~既に彼の名声は
広まっており、各地で歓迎会をうけます。 
しかし、結果的にこの時の帰国が最後となってしまうのですが――。
1918年6月、ロックフェラー財団の要請を受け、当時黄熱病が大流行して
いたエクアドルへ
一路向かいます。 
彼にとって運命の黄熱病と対峙する時が来たのでした。 現地へ到着して
まもなく(9日後と言われる)病原体と思われる細菌を特定、野口ワクチン
精製します。   (11月、最愛の母シカ死去) 
そして南米を襲う黄熱病から人々を救うため、英世はメキシコ、ペルー、
ブラジルと廻ります。その後、英世のワクチンの効果で黄熱病の猛威を
喰い止めることが出来るのでした。

 1927年、思わぬ事態が起こります。 
イギリスの医学者ストークスが、アフリカの黄熱病には野口ワクチンが効果が
ないと発表するのです。    
1928年(昭和3年)、早速英世はガーナのアクラ(現:ガーナの首都)
研究施設を造り病原体の特定に挑みます
。  
しかし、運命とは時に残酷でした。
皮肉にも、英世自身が黄熱病に感染し倒れてしまうのです。  
殉職とも思える彼の最期は、後世に渡り人々の心を打ち続けるのでした。
                                    ――享年51歳。

 こうした現地での研究は今では考えられないことであり、理論より実践という
彼らしい使命感ある行動
でした。 
今日では、黄熱病はウィルスと判明していますが、当時の顕微鏡では見ること
の出来ない範囲であり、彼の死を境に細菌学からウィルス学へ移行していった
時代の流れを考えると、彼がもしも電子顕微鏡を手にしていたら・・・
と切なくなりますね。 
幾度となくノーベル医学賞候補にもあがり評価も得ていましたが、大戦の影響
もあり受賞することはありませんでし