アメリア・イアハート

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1903年12月アメリカのライト兄弟により、 ついに人類は長年の夢であった空への
切符
を手に入れました。 人類が空を飛行するというあらたな手段を得た瞬間
だったのです――
― しかし飛行機を手にした我々の喜びもつかの間、その後の第一次世界大戦
では戦闘機という強力な「兵器」として改良され利用されてしまいます。

                       「イラスト― アメリア・カット(ショート・カット)も流行に 」

 こうした文明の進歩は戦時下における兵器の規模の拡大へ残念ながら
つながります。 逆に、兵器開発による技術革新がもたらす便利な生活もまた
皮肉なことです・・・。

1914年に始まった第一次世界大戦では、人類史上初めて毒ガス戦闘機
そして強力な威力を持つ爆弾などの大量破壊兵器が登場しました。
 言うまでもなく人的な被害もそれまでの戦争にはない残酷で大きなものに
なってしまうのです――。

 この恐るべき大戦がようやく終結し、人々がもとの平和な暮らしに戻ろうと
していた1920年代――アメリカではさまざまな分野で人々の「躍動」が始まり
ます。 
それは経済や文化にとどまらず、希望ある探険や飛行が隆盛を極めることから
もその「躍動」を感じられるのです。

 1927年5月20日(~21日)、世界を仰天させる偉業が達成されます。 
アメリカの飛行家 チャールズ・リンドバーグによる「大西洋単独横断飛行」
が成功する
のです。
「翼よ、あれがパリの灯だ」~という有名なセリフの真偽はともかく、この
フライトが象徴することは、人々が大戦の痛手から立ち直り再びロマンへ
の関心が高くなったということを意味します。 

 それから5年後の1932年5月20日、リンドバーグと同じルートで単独飛行
に挑戦しようとする一人の女性が現れます。 
その女性こそ、伝説の飛行家として知られるアメリカ・カンザス州出身の
アメリア・イアハート なのです。 
1932年当時34歳のアメリアでしたが、その飛行歴は長く、業界では名の
知られた女性でした。

 当時のアメリカでも女性の地位向上を目指す気運は高まっていました。 
そうした状況へ 登場したアメリアは女性達の期待と憧れの的だったのです。
 そんな女性達の熱い眼差しを一身に背負って、カナダ・ニューファンドランド島
のハーバー・グレース(グレース湾)から飛び立つのでした。 

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彼女の愛機である深紅のロッキード・ベガは、
当時の飛行機としては高性能として知られています。 
その信頼するベガと一体となり、途中の強い北風や寒さ、そしてさまざまな困難に遭いながらおよそ15時間後アイルランドに到着、見事
女性初の大西洋単独横断飛行に成功するのです。 

 




しかしアメリアはこの偉業に満足することなく、「世界一周」という大きな目標
密かに決意するのでした。 
彼女自身、自分に対する世間の注目が女性の権利を高める効果があること
を十二分に理解していたのです。
1935年1月11日にはその「前哨戦」とも言われるハワイ(ホノルル)から
カリフォルニア(オークランド)までの単独飛行にも成功します。 
(※ 1月11日は、彼女の功績と精神を記念してアメリア・イアハート・デー
                                     
とされている)
そして1937年5月21日、念願の「世界一周飛行」へ向かうのです。

 当時アメリアはこの大計画について、

    「飛行記録が更新される時は、将来のために
              犠牲になる覚悟を持った人が現れた時よ」


              と、今考えると意味深に語っています。

 この飛行ではベガではなくロッキード・エレクトラ双発機)に乗り込んでの
出発でした。  (同乗者は優秀な航法士、フレッド・ヌーナン
二人は東周りで順調に飛行を続け、6月末にはニューギニアのラエ飛行場に
到着。 燃料補給や整備をし、7月2日にホノルル方面へ向けて飛び立ちます。 
ここまで計画の3/4を飛行していた二人に対して、アメリカ国民は無事の成功
を信じて疑わなかったのでした。

  ――まさかこれが彼女のラスト・フライトになろうとは
                誰ひとり想像すら出来なかったのです・・・・・・

  その夜7時をまわった頃、思いがけない電文が受信されます。

       「・・現在地点が分からない・・・」 
       「・・・燃料が不足している・・・・・」


              そして消息が途絶えたのです―――。

 詳しいやりとりは手元の資料にありませんが、管制ではアメリアとフレッドが
広い太平洋上で航路を誤った、という見解に達しました。
  そして最悪でも洋上へ着水していることを願ったのです。

 連絡を受けた時の大統領ルーズベルトは、すぐさま二人の救出へ全力を
入れます。沿岸警備隊、海軍、そして空からも400万ドルをかけたと言われる
大捜索が展開されました。 
   しかし、アメリアとフレッドを発見することはなかったのです――。

 おりしも捜索エリアは日米の間でも緊張の高まりつつあった水域であり、
一説には着水したアメリア達を日本側がスパイとして拘束したのでは??と
ささやかれるほどのキナ臭い時期でした。 
ご存知のとおり、その2年後の1939年、ドイツ軍によるポーランド侵攻
きっかけに、残念ながら世界は再び戦争へと突入していくことになります。
1941年12月、ついに日米が交戦すると、それまでの冒険飛行という夢を
乗せたプロジェクトは余力をを失っていくのでした――。


 アメリアは出発前にこんなことも言っています。

       「これが私の最後の長距離飛行よ」 と・・・


 アメリアが行方不明になってから一年後、国際ゾンタ
              (女性の地位向上を目的とする国際的な奉仕団体)
アメリア・イヤハート基金を発足させます。 これは毎年航空関連専門の
女性研究者などを認定し支援する制度です。
 
 あれから70年――彼女のラスト・フライトは悲しいものでしたが、
その偉業と志はまさに女性の職業的、社会的地位の向上に寄与し、
勇気を与えた素晴らしいものでした。
 
 アメリアの理念は、
          こうして毎年確実に受け継がれているのです――。


    「心の平和を与える代償として、
                 人生が要求するのは勇気である――」

     
                               アメリア・イアハート




☆ 今回は数あるビートルズの曲の中でも
             唯一のインスト・ナンバー~♪


  
♪ Flying. 
  
(ゆったりとしてシンプルながらもセンスを感じますね!)

     ☆ Flying. (音・映像)


 

アメリア・イヤハート―それでも空を飛びたかった女性 Book アメリア・イヤハート―それでも空を飛びたかった女性

著者:リチャード テームズ
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 ☆ 飛行家として女性の地位向上にも尽力した
    勇気ある信念の人――アメリアの生涯。


 ※ なお、頂いたコメント、トラック・バックは英字スパム対策
   の為(最近多いんです)、確認をさせて頂いてからの
   掲載になります~ご了承下さいませ。

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 ジョージ・マロリー

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         「イラスト ― 不屈の精神を持つ伝説の登山家マロリー 」

ご存知の方も多いと思いますが、あの  世界最高峰のエベレスト (チョモランマ - 8848m)に初めて登頂に成功した人物はニュージーランド人の登山家、エドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイです。
                 
                 

 しかし、それより29年も前に実は登頂をしていたかも知れない(!)という人物がいたのです。
 

今回は、今なお エベレストの謎のひとつに数えられ、語り継がれるイギリスの伝説の登山家――ジョージ・マロリーをご紹介します。

 1886年生まれのジョージ・マロリーは、34歳の時にイギリス
第一次 エベレスト遠征隊に召集されます。(1921年) 
  (登頂にあたってのルートなどの調査が主な目的)
翌22年には登頂を目的とする第二次遠征隊にも参加します。しかし、この遠征では不運にも雪崩に遭い、7名が亡くなるという事故により断念。

 1924年には第三次遠征隊が組織され、マロリーにとって「三度目の正直」となるはずでした。 
当時すでに名実ともに有名な登山家だった彼は、登頂の際に
意外なパートナーを指名します。 
 若く登山経験の浅いアンドリュー・アービィンを指名するのです。
 当時まだまだ開発途上の酸素ボンベは故障が多く、また重量もあ
るために、ボンベの扱いに慣れていて体力のあるアービィンを指名
したのでした。
 そして6月8日、いよいよ第6ベース・キャンプを後にします―――
     
        運命の登頂へのアタックが始まったです。

 
  当初、軽快に頂上へ向かって登る二人が確認され、徐々に小さく
なっていく彼らの姿からは「初登頂」への期待が高まりました。 
 しかし、第二ステップ(セカンド・ステップ)と呼ばれる難所に挑む 
豆つぶほどの二人を仲間の
オデール目撃したのを最期に、
その姿は雲の中へ忽然と 消えたのでした
・・・・・・・・

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 「イラスト - 最高峰エべレスト 」

 

  20世紀初頭の未開地探険ラッシュという背景には、イギリスに
とっての国家としての威信も深く関わっていました。 
当時、北極と南極の極点到達とも他国に先を越されていたという
経緯があり、                (アムンゼンの記事参照
 あとは「第三の極点」となっていた最高峰 エベレストを残すのみ
だったのでした。 
そのためイギリスのエベレストへのこだわりと執念は並々ならぬもの
だった
のです。

 そんな時代背景の中で組織された遠征隊でした。 
しかし第二ステップを最期に消息不明となったマロリーとアービィン
――その後の捜索でもついに発見することが出来ませんでした。  
そしてその消息とともに、後に語り継がれる――

  「登頂に成功したかどうか」という謎が残されてしまった
のです。 

 それから29年――1953年5月29日、ヒラリーとテンジンが登頂し
無事に下山したのでした。  
下山したヒラリーは、山頂ではマロリー達が登頂した「形跡」を
見つけられなかった、と伝えました。 
実は、その「形跡」として考えられる「あるもの」に世界は注目していた
のです。             
  生前マロリーは、
 
   登頂に成功した時には頂上に「愛妻ルースの写真」を置いてくる
                   
――と、公言していたのでした。
 
    「君と一緒に頂上の景色を見るよ」

と妻に語っていたとも言われます―――何ともロマンティック!

 余談ですが、マロリーは身体能力に優れたばかりではなく、とても
柔軟で均整がとれ、「ギリシャ神のようだ」と形容されていたほどの
体格
の持ち主だったようです。 
 また、シェイクスピアの「ハムレット」や「リア王」を遠征中も愛読して
いたというインテリ(知性派)でもありました。 
そんな知的でハンサム、そしてロマンティストの彼はさぞやモテたこと
でしょう。 


 ―――マロリーとアービィンが消息を絶ち75年の歳月が過ぎた
1999年5月、世界中を驚かせるニュースが駆け巡ります。
  彼らを捜索するために組織されたアメリカ隊により、
     ついにジョージ・マロリーの遺体が発見されたのです!
                  (標高 8,160メートル付近) 
そしてその写真はさらに衝撃を与えました。
8,000メートルを越える標高ゆえに、うつぶせのその遺体はほぼ
原型をとどめていたのです。
右足に骨折が認められたものの、両手はしっかりと岩肌を
つかんでいました。    (滑落姿勢でもあるという)
その姿からは、今なお登らんとする登頂へのすさまじい執念を感じる
とともに、人間のロマンや苦難への絶えることのない情熱が
伝わるようでした

発見した隊員たちは、その憧れていた伝説の男の聖なる姿に熱い
ものがこみあげ、丁重に石を積み埋葬したといいます。 
   そして、遺留品にも彼の妻の写真はありませんでした・・・・・
(ポケットに入っていたハンカチや手紙、缶詰、マッチ、衣類の一部
などの遺品は持ち帰る) 

 
  現在もなおマロリーとアービィンの登頂の足跡は謎のままです
が、当時彼が携行していたカメラが発見されればいつかはっきり
することでしょう。 

 しかしその結果はどうであれ、高所でのさまざまな装備やデータの
ある今日とは違った当時の状況であり、なんとセーターにジャケット
という今では到底考えられない軽装で  8,200メートルの標高を
登っていたという事実。
 あらためて彼らの強い勇気と信念に敬意を表するとともに、人間の
素晴らしい可能性にただただ感動するばかりです。

 岩肌を両手でしっかりとつかんでいるとはいえ、その静寂の
                     「聖地」を与えられたマロリー ・・・
 
 闘いを終えた彼は、まるで母なる大地に抱かれ
               静かに眠っているようでもあります―――




    新聞記者 「あなたはなぜエべレストに登るのですか?」

    マロリー  「そこに それ (エべレスト) があるからだよ」


                    「1923年のあるインタビューにて」


 

       当時の登山靴はまだまだ充実していませんでした。
      厚手の皮ででき、靴底には鋲を打ち付けた粗末なもの
      だったようです。 マロリーの「登山靴」もやはり例外では
      ありませんでした。 しかし、そんなマロリーの愛した茶色い
      靴もまた、彼と一緒にエヴェレストに眠っているのです。
       今回の選曲は、同じジョージ(ハリスン)作曲による
      スリリングなナンバーです♪


  Old Brown Shoe.
          
(数あるビートルズの曲の中でも難易度の高い曲♪)
                   

 

☆ アルピニスト 野口 健さんのサイト

          野口 健 公式ブログ



    

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 シーボルト

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今から140年前、日本をこよなく愛した
ひとりのドイツ人医師が亡くなりました。  
博物学者としても知られるシーボルト、
 ――今回はその親日家であった彼の
生涯をたどりたいと思います。

                 

                                     「イラスト - 晩年のシーボルト」

 フィリップ・フランツ・シーボルトは1796年2月、ドイツ・バイエルン州ヴェルツブルクで生まれました。 幼い頃からいろいろなものに興味を示す子供だったようです。 
1815年、ヴェルツブルク大学に入学し医学を専攻しますが、他にも地理や
植物、民族などさまざまな分野にも関心は高かったといいます。 そして
この生来の強い探究心が、その後歴史の表舞台に彼を登場させるのです。

 1822年6月、当時西洋医学の高い知識と技術を備えていたシーボルトは、
オランダ領東インド陸軍外科医に任命されます。 そして、翌年8月には
周囲の協力のもと、長崎出島のオランダ商館医として来日――、
 シーボルト27歳の夏でした。

 シーボルトは医者という立場でしたが、日本への関心が人一倍強い人物
でした。 また、当時オランダは貿易相手国の日本をさらに知ることで日本
の地理や産物、文化などを分析し、商品を揃える必要
がありました。   
 つまり、オランダ政府から見ればそんなシーボルトはまさに適任であり、
うってつけの存在だったのです。 

 彼は商館員の健康管理の維持に努めていましたが、特例により出島以外
での活動(診察や薬草の採集など)を許可されていました。そんなある日、
診察に来ていた16歳の楠本 滝と知り合います――互いに惹かれあう二人
――恋におち、結婚するまでにそう時間はかかりませんでした・・・。

 1824年に入ると、長崎郊外の民家を購入し、日本人の医学の門下生達
へ西洋医学の講義を行います
。(鳴滝塾) 
また、門弟達にさまざまな課題(歴史、地理、生物、文化などなど)を与え
オランダ語でレポート提出させるなど、効率よく「日本」のデータを収集し
研究に役立てます。 
彼の研究は多岐に渡りますが、中でも植物学には思い入れが強くオランダ
へはさまざまな種類の種子を送っています。 
 (のちに刊行する「日本植物誌」により紹介されることになる、妻 “お滝さん”
   から命名したアジサイの学名――「ハイランドゲア・オタクサ」は有名)
 1827年5月、愛する“お滝さん”との間に愛娘 イネ(おいね)が誕生――
この数年間がシーボルトの日本でのもっとも幸せなひとときだったのでしょう。

翌1828年、来日して5年の任期を終えたシーボルトに災難がふりかかります。
 帰国の途につくシーボルト一行を乗せた船(ハウトマン号)が、おりからの
暴風雨により長崎湾で座礁してしまいます。 
そして積み荷から、当時国外へは持ち出しが禁止されていた日本地図や
葵の御紋の入った羽織などさまざまな物品が見つかり没収されるのです
――
                 (シーボルト事件
こうしたことから他国のスパイではないかなどの疑いをかけられ、約1年も
取調べを受けるのです。 その間、自責の念にかられ自暴自棄になる
シーボルトをお滝は懸命に支えるのでした。 

 1829年10月、ついに判決が下り国外追放の身となったシーボルト――
お滝とイネは法律上 連れていくことが出来ず、門人の二宮敬作らに二人の
身を預けます。 
     そして、失意のまま長崎を後にするのでした・・・・・。

 帰国後、シーボルトはその膨大な日本での研究成果をまとめ始めます。  
  集大成とも云える三部作~
「日本」、「日本植物誌」、 「日本動物誌」の刊行を開始するのです。 
また、その他日本についての詳細なデータ満載の彼のコレクションの評価は
高く、オランダ政府はそれら資料を買い上げるに至るのでした。 

日本を離れてからもずっとお滝やイネを想い続けていたシーボルトでしたが、
1845年にベルリンでヘレーネという女性と再婚――
    3男2女に恵まれます・・・。
 
 1840年のアヘン戦争辺りから見られる、欧米によるアジアに対する「開国」
への積極的な動きを危惧したシーボルトは日本の立場を心配し、オランダ
政府や親交のあったアメリカのペリー提督へ向けて、「平和的な開国を」という
旨を進言した
といいます。 
ペリーは1853年に日本へ訪れる前に、シーボルトやケンペル
                            (ドイツの博物学者・医学者)
の著書を熟読し、日本の文化や心情を研究していたと言われています。

 そんな「黒船来航」から6年が経った1859年8月、シーボルトはオランダ
貿易会社顧問として再び長崎の地を踏むのです。
                (長男・アレキサンダーを連れて) 
30年の時を越えて、お滝やイネ、そして恩人となった二宮敬作らと感動の
再会を果たすのでした
――「君たちを忘れたことはなかったよ」 と。 
 出島に戻ると貿易会社での仕事の傍ら、かつて開いていた「鳴滝塾」の
民家を買い戻し診察を行うようになります。 
――3年後の1862年4月、幕府顧問を解雇されるとそのまま帰国――
   この時が日本での最後となりました。

 帰国後は官職を退職し、故郷ヴェルツブルクに戻ります――
                            (のち、ミュンヘンへ移る)
そして1866年10月18日、その人生をかけて日本の研究や医療などに
尽力したシーボルトは70年の生涯を閉じました。
 
彼の研究成果が凝縮された書物とさまざまなコレクションは、欧米をはじめ
世界各国に極東の神秘の国 「ニッポン」を充分に紹介し、認知されるきっかけ
をもたらしました
。 
また、長崎での門弟から二宮敬作や高野長英などの優秀な医学者・蘭学者を
多数輩出するなど、育成への努力を惜しむことはありませんでした。 
娘のイネも二宮敬作らに師事し、立派な産科医となり日本初の女医として
評価されていきます。 
     (公には荻野吟子が女医第1号である)

 その後、イネは父 シーボルトの残した鳴滝の土地の確保や保存に努めます。
 ~現在、シーボルト記念館が跡地とともに現存し観光客でにぎわいを見せ
ますが、これらはイネの熱意ある尽力の 功績とも言えるのでしょう。 

長崎の街並みを一望できる皓台寺に、
        イネは母・滝そして恩師・二宮敬作と並んで静かに眠っています

毎年6月になると長崎市の花でもあり、
        シーボルトの好きだったアジサイ――「オタクサ」
                 人々をそっと見守るように優しく咲き誇るそうです。

                               (敬称略)

  ☆  シーボルト記念館

  ☆  黄昏呆助さんのサイト記事 (荻野吟子、楠本 イネ)

  ☆  ぴのさんのサイト記事 (シーボルト事件)

 

 長崎で出逢った頃、「お滝さん」と何度も愛しく呼んだであろう
        シーボルトを想像しました――
    今回はジョン・レノン十代のときの作品、
              ~恋する気持ちは抑えられない?!

 ☆  I Call Your Name.
  (12弦ギターと間奏でのリズムが粋な、元気いっぱいの曲♪)

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 ☆ シーボルトの愛した植物を見つめながら
           自分色に完成出来るワンランク上のぬりえです!

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     の為(最近多いんです)、確認をさせて頂いてからの
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 白州 次郎

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                「 イラスト - 49歳頃の 白州 次郎 」



       もうす ぐ61回目の終戦記念日です。 

戦後の6年間、日本はまだ占領下にありました。
  1951年9月の サンフランシスコ講和会議において正式に独立が認められるまで
にはさまざまな人達の尽力があったのです。
 
                                                      

  中でも異色な魅力を放つ「白州 次郎」(しらす じろう - 敬称略)について
 話したいと思います。 
白州次郎は1902年2月、現:兵庫県芦屋市の貿易商に生まれます。 
裕福な家系で育ち、17歳から9年間をイギリス・ケンブリッジ大学で過ごし、
本場の語学と紳士道を学ぶ
のです。 また、在学中には高級車ベントレーを
乗り回すなど、ここでの貴重な経験がのちの彼の人生の指針となるのでした。

 帰国後には樺山伯爵家令嬢の正子(のち作家、随筆家)を紹介され互いに
ひとめぼれ~のちの有名な白州次郎・正子夫妻が誕生するのです。 
白洲家は経済的な問題に遭いながらも、その後白州はいくつかの会社の
取締役を歴任するなどして過ごしました。 

 ~私が初めてこの白州次郎という人物を知ったのは4~5年程前だった
と思います。 友人から「プリンシプルのない日本人」という本(彼唯一の著書)
を受け取ったのです。 何気に読み始めた私はその内容にどんどん引き込ま
れていきました。  「当時、こんな日本人がいたのか!」 
                              ~と正直驚いたものです。 
彼についてよくご存知の方もいらっしゃると思いますが、終戦記念日を控えた
今 、  あらためて記事にしたいと筆を執りました。

 日本が戦争に敗れてまだ間もない1945年(昭和20年)12月、当時外務大臣
であった吉田 茂の要請を受け、マッカーサーを最高司令官とするGHQ
                                   
(連合国軍総司令部)
との窓口となる役職(終戦連絡中央事務局参与)に白州次郎は就任しました。
 (吉田が“正子を通じて”親交のあった白州を、欧米の事情に精通し語学も
     優れている
ことから抜擢したと言われる)  
       
       そんな白州に最大の仕事が訪れます―― 。

 マッカーサー草案に基づき作成された日本国憲法の草案の翻訳白州を
中心として行われました。 日本側が作成した草案は却下され、半ば一方的に
GHQが一週間ほどで作成した憲法草案を翻訳せざるを得ないという屈辱的な
状況での翻訳でした。 
のちに白州は著書で 、
「占領中のアメリカが作成したものではなく、国民の総意でつくるものだと思う
         ~我々がつくった我々の憲法がほしいのだ」
 
     と苦々しく語っています。 

 この時期、白州の人柄を示す堂々とした有名なエピソードがあります。 
敗戦の年のクリスマス、白州は天皇からの届け物をマッカーサーへ持参しました。
 折りしもテーブルの上は他のプレゼントでいっぱい――マッカーサーは
あろうことか天皇からの品を 「その辺に置いてくれ」という仕草で示したのです。
  白州は激高しました、  
  「天皇陛下の贈り物を、その辺に置けとは何事か!」 
  マッカーサーは慌てて新しいテーブルを用意しました。  
(今年4月、「マッカーサーを叱った男」としてNHKでも放映されましたね)

 また、GHQの高官(民政局長)であったホイットニーからお世辞で
「あなたの英語はお上手ですね」と言われると、すかさず
   「あなたも、もう少し勉強すれば一流になりますよ」
  ときり返したと言います。 ここにも彼の持論であった  
   「戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない」
    という気概が感じられますね。 
 白州はこうした言動や堂々とした体格(185センチの長身)、  そして
イギリスで学んだ紳士的な物腰から~「従順ならざる唯一の日本人」として、
GHQに一目置かれる存在だったのです。

  1951年(昭和26年)9月8日、日本が7年ぶりに主権を回復する
サンフランシスコ講和会議の席上、首相・吉田 茂の受諾演説は「日本語」で
行われました。 当初GHQから用意されていた原稿は英文でしたが、同行して
いた白州はここでも“気概”を示しました。 
いまや主権を取り戻した日本の誇りと面子(メンツ)を込めて、吉田首相に
「日本語」で読むことを進言したのです。
 
  ~独立が正式に叶ったこの夜、白州は男泣きに泣いたそうです~ 

 その後の白州は意外な人生の進路を選択します。 まるで政界での役目を
終えたかのように吉田 茂の退陣とともに身を引き、 東北電力の会長になる
など実業界に身を置くのです。 こういった先見性や権力にこだわらない自由
な思想は、かの坂本龍馬と白州はよく比較されたりしましたが、個人的には
「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」の長州の革命児~高杉晋作を
連想させます


  晩年は留学時から親しんでいたゴルフ好きが高じて、1976年に
軽井沢ゴルフ倶楽部」理事長を務めますが、ここでも権力者に対し厳しく
接する有名なエピソードを残します。 
~ある時、車のドアを開け運転手に靴ひもを結ばせている会員がいました。
 それを見ていた白州は烈火のごとく言ったのです。
      「おまえは手がないのか!」
 また、 ある時の首相がSP(警護)や新聞記者を引き連れて訪れた時、
入場の許可を求めにきた秘書に――
     「会員以外は立ち入り禁止だ!」と厳しく突っぱねました。
 こうしたマナーの悪い者へは首相と言えど容赦なく一喝する一方、
礼儀正しいメンバーへは優しかったと言います。

  白州の死後、当時のキャディさん達に思い出話を取材すると、
「本当に優しい方だった・・・」 と涙ぐんだそうです。 
いかにも「プリンシプル」(原理原則、信条)を念頭に、権力に驕る(おごる)
ことなく筋の通った行動をしていた彼らしい逸話でした。

 80歳まで愛車のポルシェ911に乗り、静かに しかしさっそうと悠々自適に
過ごしていた白州は 1985年(昭和60年)11月、風のようにその83年の生涯
を終えました・・・・・
 彼が愛妻の正子と大戦中から40年以上も住んでいた旧白州邸   
~「武相荘」(ぶあいそう)が一般公開されており、(館長は長女・桂子)
生前の白州次郎・正子夫妻を偲ぶ多くの方が訪れているそうです。

             「武相荘」(ホーム・ページ)
 
 今、静かに注目されている白州次郎~混迷する現在の政局に
   彼のような政治家を待望する表れなのかも知れません
      
――プリンシプルを実践する政治家を・・・・・



                                         ― 2006・8・10   

 今回は白州次郎の生きざま同様、「粋で型破り」な名曲を選曲!

 ☆ A Day In The Life.
  (オーケストラによる壮大なサウンドは時空を超える?!)



風の男 白洲次郎 Book 風の男 白洲次郎

著者:青柳 恵介
販売元:新潮社
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 ☆ 「日本で最初にジーンズをはいた男」
     とも言われる、掟破りのナイス・ガイ、
      風の男~白州 次郎の伝記!

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 アムンゼン

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              「イラスト - アムンゼンと南極のオーロラ」

 

1911年12月14日ノルウェーの探険家ロアルド・アムンゼンは人類初の南極点到達をはたしました。   しかし、その到達という歴史的快挙に至るにはさまざまな過酷な闘いがあったのです。

 1872年、ノルウェー・オスロ近郊で生まれたアムンゼンは、幼少期に「北極探険史」(ジョン・フランクリン著)を読み、極地探険家を志したといいます。 成長しオスロ大学で医学を学びますが探険への夢を諦めきれず、1897年ベルギーの探険隊(ベルギカ号)に加わり経験を積みます。 これらは結果的にすべて来たる「その日」に備えてのアムンゼンの準備となったわけなのですが・・・

 彼はその小さい頃からの夢であった「北極点到達」を実現すべく、同じノルウェー出身の探険家ナンセンから「フラム号」を借りると、北極へ向けての準備を進めるのでした。 そんな矢先、アメリカのピアリーが北極点へ到達した(1909年4月6日)という知らせを受けます。 動揺を隠し切れないアムンゼンでしたが、密かに南極点へ目標を変更し、モロッコの西、マディラ島付近まで航行した時に初めて乗員達へ南極点を目指すことを宣言します。 この時、乗員達はうすうす感じていたのか大喜びで賛同したといいます。 そして、南極を先に目指していたイギリスのスコット隊に早速電報を打つのでした。「我らもまた、南極へ向かう」 と。 

 電報を受けながらも、当初は南極の調査などでデータの豊富なスコット隊にとって、まるでデータに乏しいノルウェーのアムンゼンはさほど眼中にありませんでした。 データに沿って事を進めれば順調に極点への到達は実現出来ると考えていたのです。しかしスコット達にとって現実には厳しいスケジュールでした。学術調査をしながら極点へ向かう計画であったため、その往復距離はざっと3,000kmを超える大掛かりな調査となるものでした。    これは北海道の稚内から沖縄南端(石垣島など)までに匹敵する距離です。 

 一方のアムンゼンは南極点を目指すのみ、というはっきりした目的があったため、デポ(要所ごとに食糧や荷物を貯蔵する所)のポイントも明確にすることが出来ていたのです。 この目的への明確な計画や意識の点も、その後の両隊の運命を分けてしまうことになるのでした。

 アムンゼンは少年の頃から北極探険への憧れもあり、体力作りも行っていました。 また、冬でも部屋の窓を開けては耐寒訓練をしたり、船舶の資格を取るなど航海術も学び、エスキモーからは極地での行動の仕方を吸収していたのです。 ~準備は万全でした。

 1911年、南極も夏の期間が訪れると(南極では12~3月が夏の時期とされる)、いよいよ両隊は探険へ向けて出発を急ぎます。 アムンゼン隊はエスキモー犬約50頭とソリに分乗し、スコット隊は耐寒馬10頭と雪上車(電動ソリ)で出発。 ここに国の威信とプライドを懸けた人類史上最も長く過酷なレースが始まったのです。

 夏の時期とは言え、南極は気温マイナス30℃の世界であり、ひとたびブリザードになれば気温もさらに下がり、また視界も遮られる極限の世界!  それはのちにスコットの日記に記されていた   「極点への到達という名誉でもなければ、ここはとても恐ろしい場所・・・」 という記述にも表れているのでしょう。 

 レースが始まり一週間もすると、両隊の明暗は早くも現れます。 スコット隊の雪上車が故障し、寒さに強いはずの馬が次から次へと倒れていくのです。 結局、往路の半分を過ぎたところで頼みの馬が全滅してしまいます。 そしてこれは、300kg というソリを人力で曳くことになったことを意味しました。 悲劇の前兆とも思える致命的な出来事だったのです。 (後の分析では、この時に引き返していたとしたらスコット隊は全員生還出来たと言われている) 

 アムンゼンも時折ブリザードに悩まされながらも犬ゾリやスキーを活用し、徐々に極点へ近付いていました。 そしてついに、1911年12月14日アムンゼン隊は南極点に到達し、ノルウェーの国旗をそのポイントに翻すのでした!  冷静に正確な位置を計測し終え、「我々は1月25日には基地に帰るぞ」と隊員達に指示を出すとまっすぐ帰路につきます。(事実、1月25日に予定通り戻ります) 

 スコット隊は天候の悪化と体力の消耗でなかなか前進出来ませんでしたが、1912年1月17日ついに彼らも極点に到着するのです。 しかし、そこで彼らが見たものは、ノルウェー国旗とアムンゼンの残していった小さなテント(中には食糧と手紙が入っていたとされる)でした。 スコット一行は失意とともに帰路につくしかありませんでした。(その時の写真が残っていますが、がっかりと肩を落としたスコット隊が写っています) 

 その後のスコット隊はもう悲劇としか言いようがありません・・・  2月に入ると凍傷により一人が亡くなり、3月には一人が行方不明(覚悟の自殺といわれる)、残ったスコット達3人もブリザードと寒さ、そして体力の消耗で再びそこから動くことは出来ませんでした・・・近くのデポまであと18kmというところだったのです。   ――同年11月の捜索で発見された時、テント内には学術調査資料がきちんと並べられていたといいます。
 ――3月29日の最後の日記のページとともに・・・・・

 こうしてアムンゼンが南極点を制覇し 、男たちの生死をかけたドラマは幕を閉じたのです。 ちなみに、同時期に少し遅れて日本の白瀬 (のぶ)が南極点を目指していましたが、残念ながら途中で断念しています。 (日露戦争での勝利とこの白瀬の勇敢な挑戦は、当時世界に日本の存在をあらためて知らしめたと言われる) 

 その後のアムンゼンは、1925年に資産家のエルズワースと飛行艇で北極探険に挑んだり(これは失敗に終わる)、翌1926年には飛行船「ノルゲ号」で北極海横断飛行に成功します。 相変わらず極地探険家の第一人者として活動していました。  しかし、このノルゲ号による成功を、一緒に飛行していたイタリア人探険家  「ノビレ」が成功を独り占めにする行為に出たことで、二人は絶縁し不仲になります。 

 そんな中、1928年6月そのノビレの乗った飛行船が北極探険中に遭難してしまいます。 この時アムンゼンはそれまでの不和を断ち切るようにノビレ救出に向かうのでした。それは同じ探険家として極限状態を誰よりも知っていたからだとも、彼本来の紳士的な優しさからだとも言われます。その結果、ノビレは無事に救助されましたが、アムンゼンは二度と戻ることはありませんでした・・・・・ 資料では救助に向かった当日、スピッツベルゲン付近で消息を絶った、とあります。――同年10月、彼の乗っていた飛行艇の破片がノルウェー沖で見つかるのでした・・・

 「探険家は自宅では死なないものだ」 と何かで読んだことがあります。 彼ら探険家の行動には単に名声を得たいから、だけでは説明のつかないものがありますが、ひとつ言えることは、未開地への探究心が誰よりも強く行動的であるということでしょうか。 
アムンゼンにしても彼の顔に深く刻まれたシワは、何度も極限を生き抜いてきた証しでもあり、その純粋な瞳には未知への限りない好奇心が秘められていたのでしょう。 
 
~そこには何故かうらやましいくらいの
                  「男」を感じざるを得ないのです~


 
 ♪今日の選曲は、なんとも哀愁の男を感じるジョージの名曲です♪

 ☆ While My Guitar Gently Weeps.
    (ホワイト・アルバム収録の言わずと知れた名曲!~エリック・クラプトンの弾くリード・ギターが哀愁ある泣きのギターとして有名ですね~!)

アムンゼン―極地探検家の栄光と悲劇 Book アムンゼン―極地探検家の栄光と悲劇

著者:新関 岳雄,松谷 健二,エドワール・カリック
販売元:白水社
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 ☆ その人生を未知への探究に費やしたアムンゼン~彼の劇的な生涯を綴る1967年著作の貴重な復刻版!

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 ガガーリン

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今日7月7日は「七夕」です。 星の世界では年に一度の大イベントですが、今から45年前にも人々が「空」に注目したある重要な出来事がありました。 人類史上初めて宇宙空間へ飛び立った人物~ガガーリンが有人飛行に成功した記念すべき出来事です。      
                                            「イラスト - 戦闘機にて飛行訓練時のガガーリン」

 ユーリ・ガガーリンは1934年3月9日、旧ソ連(現ロシア共和国)グジャーツク市
(現ガガーリン市)クリュシノで生まれます。 両親はコルホーズ(集団農場)の
労働者でした。 
幼少期は第二次世界大戦の真っ只中で、彼の住む地域へもドイツ軍が攻め込み、
防空壕での暮らしを余儀なくされたと言います。 

 やがて終戦を迎え中学を卒業すると、工業技術を学ぶためにサラトフにある
学校へ通います。 エアロ・クラブに入り飛行への関心が高まると、1955年に
オレンブルグ航空士官学校に入学、航空学を学びます。 
そして、在学中の1957年に彼の人生を左右する二つの出来事が訪れます。 
ひとつはオレンブルグで出会ったバレンチナ・ゴリチェバとの結婚
そしてもうひとつは、世界を驚愕させた人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ
の成功です。

当時の冷戦下では主にソビエトとアメリカという超大国が宇宙開発競争を展開
しつつありました。  宇宙開発はイコール軍事開発競争であり、両国とも
いかに先に衛星の打ち上げを成功させるかという「分刻み」でしのぎを削って
いたのです。 
そして1957年10月4日のソビエトによるこの人工衛星打ち上げ成功は、
世界に(アメリカに)衝撃を与えることになったのです。(スプートニク・ショック) 

ソビエトの開発研究チームはセルゲイ・コロリョフを中心として、またアメリカは
ドイツから亡命したフォン・ブラウンを中心とした組織による熾烈な開発競争
でした。   これはそれぞれの国の威信もさることながら、兵器利用が可能と
なることによる脅威
を示すため、スプートニクの成功はアメリカをはじめとする
西側陣営を驚愕させたのでした。  
そして、アメリカは翌1958年1月に何とか「エクスプローラー1号」を打ち上げ
ますが、この時点ではソビエトが一歩も二歩もリードしていたのです。 

 そんな世界的な出来事によって、ガガーリンが宇宙への興味をどんどん
増幅させていったということは想像に難くありません。 
当然ソビエトはアメリカを突き放すために次なる計画である「有人飛行」を
進めます。 
宇宙船の開発をすすめる一方、優秀な宇宙飛行士が必要になり20人の
候補生が公募により集められ、その中に若きガガーリンの姿がありました。
  それから約9ヶ月間にわたる精神的・肉体的な厳しい訓練を受け、徐々に
人数は絞られていきます。 
最終的に2人が残され、見事ガガーリンが歴史的な宇宙飛行士のチャンスを
つかむ
のでした。 
(選考については、ガガーリンが158センチと小柄であったためとか、彼の
            人間性をコロリョフが気に入ったとか諸説ありましたね)

 かくして1961年4月12日午前9時7分、ガガーリンとソビエトの野望を
乗せた「ボストーク1号」がヴァイコヌール宇宙基地より飛び立ちました。 
そのまま順調に地球周回軌道に入ると、そこは人類が初めて目にする
宇宙空間~ガガーリンはどんな気持ちだったのでしょう――
有名な「地球は青かった」という発言にもまた諸説あり、本当は「地球は青い
ヴェールをまとった花嫁のようだった
」という文学的な表現だったとも――。 

 ともあれ順調でしたが、実際には宇宙空間での機器類が正常に作動して
いるか、体調に異変を感じないか、など地上との交信も任務であり、
ゆっくりと地球を眺めることは難しかったのかも知れません。 
そんな中、国営タス通信のニュースでガガーリンの大尉から少佐への昇進が
伝えられ
、彼本人も喜びます。 
やがて地球を一周するころ予定通り大気圏に突入し、サラトフ近郊の畑に
無事降り立ち帰還を果たすのでした―― 108分という短時間でしたが、
人類が宇宙空間へ行き、計画通りに無事帰還したという大成功だったのです。 

帰還後は盛大なパレードが行われ、時のフルシチョフ書記長と対面し、
また世界各国をソビエト宇宙開発の「広告塔」として訪問します。
~こうしてアメリカはまたしても屈辱を味わいますが、数年後に時代の流れが
変わるとはこの時誰も知る由もなかったのでした。 

 1966年にソビエトの宇宙開発をリードしてきたコロリョフが病に倒れます。
 この頃からすでに暗雲が垂れ込めていたのでしょうか、
――1968年3月27日、2度目の宇宙飛行のため ミグ-15での飛行訓練を
していた最中、ガガーリンは墜落して同乗していた教官とともに帰らぬ人に
なります
。(享年34歳) 
あまりの突然のことで当時しばらくは誰もその事実を認めなかったと言います。
 後に事故原因もいくつか挙げられましたが、どれも確証に乏しく謎の残る
最期となってしまいました。 国策とは言え労働者階級出身のガガーリンが
成し遂げた人類初の有人飛行――(政治的戦略を除けば)彼が人々に夢と
ロマンを与え、来るべき次世代の宇宙時代への希望の光を灯したヒーロー

に変わりはないのです。

 ボストーク1号から2年後の1963年6月16日、「ボストーク6号」により
世界初の女性宇宙飛行士となったテレシコワ」~彼女もまた「私はカモメ
――という名文句とともに歴史に名を残しました。(「私はカモメ」については、
多々誤解もあるのですが・・・)     そしてアメリカも紆余曲折を経て、
1969年の「アポロ11号の月面着陸」へと至るのです。

1981年4月12日、ガガーリンのボストーク1号からちょうど20年のその日、
新しい宇宙開発の時代が始まります。 アメリカのスペース・シャトル
(再利用型宇宙往還機)の初飛行が行われたのです。 
依然、冷戦は続いていましたが、ガガーリンの偉業を讃えたこの日を
人類共通の宇宙記念日」と認識してのシャトルの飛行は、技術だけではなく
意識面でも新しい段階に入ったことを予感させるアプローチでした。 
1989年、東西冷戦の象徴でもあった「ベルリンの壁」の崩壊により、時の
ゴルバチョフによるペレストロイカは実を結びます。 
1990年には日本人初となる宇宙飛行士としてジャーナリスト・秋山豊寛さん
がソユーズに乗船するなど、各国の協力が得られる開発の姿がそこには
存在してきたのです。

 ここ数年は残念ながら、記憶に新しいイラク戦争やロシアからの独立に伴う
内戦、テロによる緊張、そして「北」の不穏な動きなどで「きな臭い国際情勢」と
なっています。 
さまざまな事情で国際宇宙ステーションなどの建設もなかなか進まないようです
が、せめて国家間のひずみは宇宙開発に影響を与えないような協力はして
ほしいものです。 
ガガーリンをはじめ多くの宇宙飛行士たちは、宇宙から見た地球がとても美しく
かけがえのない生命の星
と感じ、神聖な力を感じたそうです・・・
――争いのない、共存するという平和な暮らしを一番望んでいるのは、
                      他でもない地球なのかも知れません――

 
 今回は「七夕」であり、我らが(?)リンゴ・スターの誕生日でもありますので、
                              この曲を選曲します~!

 ☆ With A Little Help From My Friends.
  (あのサージェント~の2曲目に挿入され、リンゴのヴォーカル曲としては
   1,2位を争う人気の曲です~リンゴにぴったりの作品ですね!)

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 ☆ ガガーリンをはじめ、リンドバーグやアームストロングなど、人類の夢と
     ロマンである「空」を目指した男たちのドキュメンタリー!
 
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 平塚 らいてう

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                             「イラスト ― 晩年のらいてう」
 
 先日、職場の女性がこんな感じでぼやいておりました。
 ~「明日、パート契約の更新だよ。時給が上がるわけじゃないし面倒なんだよね~、男の人は社員になりやすいしいいなぁ~。」~と、何気に聞いていましたが、
男の人は~」という言葉に考えさせられましたね。                 
                           

 最近は男女の雇用の機会に差がなくなっている感覚でしたが、まだまだ実状
としてはそのパートの方の話す内容が本当のような気がしたのです。 
そして、今風(?)に言えばフェミニズムやジェンダー(社会的な性別)論にも関連
する歴史上のある女性の名前が思い浮かびました・・・。

 女性解放運動や平和活動で知られる「平塚 らいてう」(敬省略)です。 
「平塚 らいてう」<らいちょう - 本名:奥村 明(はる)>は1886年2月、東京
の麹町に生まれました。 らいてうは、大学在学中(現:日本女子大)からそれまで
封建的な男性社会や良妻賢母という言葉などに違和感を感じ始めていました。
 女性としての尊厳(権利)と社会的自立を改めて理解しようとしたのです。

 そんな折の1908年、恋中となった作家の森田草平と心中未遂事件を起こし
ます。(塩原事件 - 当時、スキャンダラスな出来事として世間の注目を浴びる、
                                      煤煙事件とも言う)  
1911年、女性初の文芸誌となる「青鞜」(せいとう)を創刊。(青鞜社を結成)  
有名な「元始、女性は実に太陽であった」という印象的な創刊の辞を発表し、
女性解放運動を促します。 これは、当時「大正デモクラシー」という比較的穏やか
で民主的な時期にあって、各方面に衝撃を与えた出来事でした。 
(また年下の画家である奥村博史と同棲し、「若いツバメ」という言葉も話題となる)

 1918年、創刊時に詩を寄せた同士でもあった与謝野晶子と、母性と経済的
自立に関する論争を展開します。(母性保護論争)  
晶子が「婦人公論」などの大衆紙に持論を掲載し、らいてうが反論を掲載する
     (スウェーデンの女性思想家エレン・ケイの著作から影響を受けていた)
というやりとりが行われたのです。 らいてうと晶子は対照的な生い立ちであり
双方の意見とも説得力はありましたが、他の多数の女性運動家とも絡んだ
論争になったため、この一連の経緯が結果的に女性問題へ世論の関心を誘う
きっかけ
となったことが重要なことであったと思います。 

 1920年(1919年とも言われる)、戦前で唯一の女性の団体である
新婦人協会」を結成します。(市川房江らと) らいてうと房江はしばらくすると
対立し、それぞれが会を離れます。 しかし、後任の奥むめおなどの同士達は
粘り強く運営を続け、婦人の参政権獲得の為~ついに「治安警察法 第五条
の一部改正に成功するのです。 

 時は過ぎ、1941年に始まった太平洋戦争は、3年と8ヶ月にも及ぶ死闘の末
ようやく終戦を迎えますが、この凄惨な戦争という過ちからは、らいてうもまた
平和を願う強い意識に目覚め、女性主義のみならず平和憲法を軸とした
非武装・中立を訴え始める
のでした。

 1953年には、「日本婦人団体連合会」の会長、「国際民主婦人連盟」の副会長
を務め、軍縮や安保廃棄を主張。 1955年、科学者を中心とした核廃絶を
求める「ラッセル・アインシュタイン宣言」(アインシュタインの記事参照)が発表
されると、らいてうも湯川秀樹ら知識人と「世界平和アピール七人委員会」を結成
し、紛争などの平和的解決の重要性を唱えます。 
その後ベトナム戦争が始まると、「ベトナム話し合いの会」を結成するなど、
反戦・平和を訴えるのでした。 女性の権利と自立、そして反戦と平和を終生唱え
続けた
平塚らいてうは、1971年、ベトナム戦争の終結を見とどけることなく
その生涯を閉じました ――享年85歳。

 彼女の唱えた二つの大きなテーマ~女性の尊厳と自立、そして反戦と平和は
世界が未だに問題を残している人類の課題だと感じます。 
男女雇用機会均等法のもと、女性の社会進出目ざましい現代であっても、実際
には冒頭に述べたようなことが身近に存在していますし、戦争や紛争などは
絶えず起きているというような悲しい現状です。 
特に後者は民族や宗教、そして互いの利害などの複雑な要因が絡むため、
時代が変わってもなかなか各国の緊張は解けずにいるのです。
 
  
     ――先人達は今の状況をどんな気持ちで見守っているのでしょう――



 ☆ 関連する専門サイト    平塚 らいてう の会



 今日の選曲は、ジョンのソロ曲です~!
 
 ☆  Woman.  (1980年のジョン・レノンの遺作となった
              「ダブル・ファンタジー」中の美しいバラードです!)


金いろの自画像―平塚らいてう ことばの花束 Book 金いろの自画像―平塚らいてう ことばの花束

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☆ らいてうの言葉を通じて、時代背景も見えてくるような
「ことば集」です。 わかりやすい解説付きで楽しめますね。

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 リンカーン

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アメリカの第16代大統領、エイブラハム・リンカーンと言えば~
    「人民の、人民による、人民のための政治
という言葉を含む有名な演説を思い浮かべます。 リンカーンは1809年、
ケンタッキー州ヘーディンの貧しい農場の丸太小屋で生まれました。

                          (イラスト - 「奴隷解放の父」 リンカーン)

 やがて、成人したリンカーンはイリノイ州ニューセレムに移り、ミシシッピー川でニューオリンズまで下る荷運びの仕事に就きます。 また、他にも郵便業務などさまざまな仕事を経験し、正直で真面目な彼の勤務ぶりは多くの信頼を得たそうです。 そして1836年には独学で弁護士の資格を取得し、翌年に弁護士事務所を開いてからは評判のよい弁護士として過ごします。 

 1846年、リンカーンはホイッグ党員として下院議員に選出されますが、2年の任期を終えるとしばらく弁護士として精力的に活動します。 ところが、政界から徐々に離れかけた彼に、再び復帰するきっかけとなる重要な出来事が起きるのです。 1854年、「カンザス・ネブラスカ法」の成立です。(1820年のミズーリ協定が無効となる) 民主党ダグラス議員の提唱したこの法案が成立するや、リンカーンは激怒し復帰を決断したのです~共和党結成へ。(奴隷制の拡大を促しかねない法案を危惧) 

 1958年には上院議員選挙に出馬し、彼にとっては因縁の相手であるダグラスと争いますが、~あえなく落選。 しかし、この選挙戦での彼の雄弁さは注目を集め(演説の内容、文章構成など表現力に優れていた)、1860年の共和党大統領候補に指名されます。 この選挙戦の中、有名なエピソードのひとつ~グレースというひとりの少女から手紙を受け取ります。
   「あなたはヒゲを生やした方がいい」~ と。

 かくして、ヒゲを生やしたリンカーン(!)は1860年11月6日、共和党初の第16代大統領に選出されるのでした。 (もちろん、少女のアドヴァイスの効果だけではありません)   しかし、リンカーンの大統領就任は、彼の政策に反発を強めていた南部の州が連邦から脱退し、新たにアメリカ連合国を結成する旨を宣言する~という事態を招きます。(当時はまだ、連邦政府より州同士の結束が強かったため) この国家としての形態崩壊の危機に、その主張を認めない北部の州とついに武力による衝突~南北戦争が始まるのです。

 有名な南軍のリー将軍北軍のグラント将軍などによる激戦が各地で展開されるのでした。 開戦当初は南軍優勢でしたが、1863年1月1日に「奴隷解放宣言」(本宣言)をリンカーンが発表するや、北軍への支持が広がり戦況が好転し始めると、同年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が勝利~優位に立つのでした。そして同年11月19日、ついにあの歴史的なゲティスバーグの演説が行われるのです。 (戦没者への墓地献納式典での演説)

 その後も戦いは続きますが、リンカーンは1864年の大統領選にも再選します。  まる4年にも及ぶこの南北戦争は、1865年4月9日、南軍リー将軍の降伏によりついに終結します。(双方で60万人以上の死傷者を出した) しかし、終結の安堵冷めやらぬ5日後、首都ワシントンで観劇中のリンカーンを南部支持の俳優ジョン・ブースの凶弾が襲います・・・・・ 

 貧しい家庭に生まれながらも、奴隷制への批判精神から独学で大統領に登りつめた苦労と信念の人~リンカーン~彼を尊敬の念で形容した言葉があります。 「丸太小屋からホワイトハウスへ~」 まさにアメリカン・ドリームを体現した象徴的な存在として、今なおアメリカ国民に慕われ続ける真の大統領なのです・・・


♪今日の選曲は、ポールがデビュー以前(16歳の時)に作曲したフォーク調の佳曲です!

 ☆ I'll Follow The Sun.   (歌詞もなんとなく記事に合いそうな・・・?、ポールらしいシンプルでメロウな曲ですね~)

リンカーン―どれい解放の父 Book リンカーン―どれい解放の父

著者:松岡 洋子
販売元:講談社
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 ☆ 南北戦争という大戦をくぐりぬけ、連邦制を守り、奴隷解放をつらぬいた信念の政治家~リンカーン大統領の凶弾に倒れるまでの半生を描いた感動の伝記です。

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 ゲーテ

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私の部屋の壁にも格言やことわざなど、先人達の残してくれた言葉の財産がいくつか掛けられています。       その中でも、特に有名な人物のひとりである「ゲーテ」 について今回はふれたいと思います。


                              (イラスト - 晩年のゲーテ)

  「ゲーテ」  (ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)は1749年にドイツ西部の
都市、フランクフルト・アム・マインで生まれます。 裕福な商人の家柄で育った彼は、教育熱心な父 (皇帝顧問官)のもと家庭教師をつけられるなどして、少年期には
英語、フランス語など数ヶ国語を習得していた
といいます。
そんな恵まれた環境と生来の努力家もあってか1765年、16歳にして
伝統あるライプチヒ大学(法学部)に入学
します。
(※ このライプチヒ大学へは文豪の森 鴎外も医学部へ留学したことがある)
 しかしライプチヒでのゲーテは法律学への興味を失い、専ら青春という時期を
楽しんでいたといいます。
そんな生活がしばらく続き、ゲーテは病気を患い(結核と言われている)帰郷、
療養します。(1768年) それから約1年半後、体調が戻ると父の勧めで
フランスのストラスブール大学へ向かうのでした。 

 この頃、5歳年上の哲学者ヘルダーと知り合い、さまざまな文学への視点、
アプローチを学びます。 また、牧師の娘フリーデリケ・ブリオンに恋をし、
後の有名な抒情詩「野ばら」へインスパイアされるのでした。 1771年に
卒業すると帰郷し、弁護士として生活を始めますが、文学に目覚めていた
息子を心配した父は、さらなる法学の習得のためにヴェッツラーの裁判所
へ向かわせます。
 環境が変わっても相変わらず文学への関心ばかりのゲーテは、ある日、
村の舞踏会でシャルロッテ・ブッフと出会います。 知的で美しいシャルロッテ
にたちまちひとめぼれするゲーテ、積極的にアプローチを続けるのでした。 

やがて、彼女がゲーテの友人であるケストナーの許嫁(いいなずけ)と
分かるも、3人の親交は深まったといいます。 しかし、やはり叶わぬ恋に
絶望したゲーテはヴェッツラーを去るのでした。 

 その頃ショッキングな出来事が起こります~ヴェッツラーでの友人、
カール・イェルーザレムがゲーテの様な叶わぬ一方的な恋の末、自殺する
のです。 この出来事に衝撃を受けた彼は1774年、代表作のひとつ
若きウェルテルの悩み」 (通称:ヴェルター)を発表します。
この小説は当時ヨーロッパ中で大ヒットし、内容に影響された若者の自殺が
急増した(実際には数名とも)とも言われ、この作品で一躍ゲーテは有名に
なったのです。 (前年には戯曲 「鋼鉄の腕 ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン
                      (通称:ゲッツ)も発表されている)
 1775年になると、プライベートではフランクフルトの資産家シェーネマン家
の娘リリーに恋をしたりしますが長続きせず、11月にワイマール公国の
カール・アウグスト公の招きでワイマールへ向かいます。 一時の滞在の
つもりでいたゲーテでしたが、アウグスト公や宮廷の人々と接していく中で、
留まりたいという心境になったといいます。 中でも、優雅で包み込むような
魅力を持った、シャルロッテ・フォン・シュタイン夫人に夢中になったゲーテは、
彼女から人間的に多大な影響を受けるのでした。 

 公国でゲーテは政務に就き信頼を得ていましたが、1786年突然イタリア
へ向かい、2年ほどの放浪後帰国するという無謀にも見える行動をします。
      (後に発表される 「イタリア紀行」 の下地となる経験と言われる) 

 その後のゲーテはフランス革命(1789年)に始まる諸戦争に関係したり、
ナポレオンと会談するなどのエピソードを残しますが、文学活動を着々と
こなし続け、1808年には彼の代表作である長編戯曲、
ファウスト」 (第一部)を発表します。(第二部は死後の1833年に発表される)

  晩年は自伝的な作品が増えたりしながらの文学三昧の日々を過ごし、
1832年に永眠しました。

 ゲーテと言えば 「ヴェルター」 や 「ファウスト」 などの作品が有名なだけで
なく、自然科学者としての側面も重要な人物ですね。 特に、ニュートンの
科学的色彩論」に反証した人間的色彩論」や植物学は目を見張る研究です。

 また、我々の身近なゲーテと言えば、冒頭にも述べました 「格言」や「金言
でしょうね。 時代を超えて通用するキャッチ・コピーのような普遍性と、
的を射た鋭さが人気の理由なのでしょうか。 最後にその中から有名な
ゲーテの言葉をいくつか紹介しましょう。



「行動が全てだ。 栄誉に価値はない。」

「人間はなんと知ることの早く、行うことの遅い生き物だろう」

「涙とともにパンを食べたことのないものに、人生の味はわからない」

「財産を失ったのは、いくらか失ったことだ。
     名誉を失ったのは、多くを失ったことだ。
        勇気を失ったのは、すべてを失ったことだ。」

「我々はいろいろ理解できないことがある。
     生き続けて行け、きっとわかってくるだろう。」


                           ―  ゲーテ

 
俳句や短歌のように一切無駄な言葉がなく、それでいて深い  ですね。
もちろん、ゲーテに限らずいつの世にも素敵な言葉は存在します。 
私のように壁に掛けて満足している(笑)ようでは意味がなく、まさしく
行動あるのみなのでしょうね、頑張ります。(汗)

           < 関連おススメ~サイト >

☆ A Wandering Life. (管理人「しまさん」のワンダー・サイト)

☆ 勇気と希望の格言集 (管理人「哲学博士」の格言専門サイト) 

   では、今夜のリクエストはビートルズからの最後(?)のメッセージである
「アビィ・ロード」からの曲です~エンディングで           
君が受け取る愛は、君が与える愛と同じ・・・」とドキッとするセリフ
  が登場します~♪ (こ、これも格言ですね~!)

 ☆  The  End.  
      (リンゴのドラム・ソロのあと、ポール~ジョージ~ジョンの順での
       ギター・ソロは感慨深いです、ハイ)

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☆ 最近はテレビでもおなじみになった斉藤先生の著書。 
  ゲーテを絡めた新しい切り口で、何かと迷いやすい現代人へ
  ヒントを提示してくれます。

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 戦艦大和

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 昨日は切なくてどうしても記事に出来なかった「戦艦大和」について載せたいと思います。 最近は映画「男たちの大和」の影響もあり、大和が静かにですが注目されていますね。 もちろん私も戦争を知らない世代、と言うよりまだまだ若造なのですが、歴史に興味がありそれなりに勉強していくと、どうしても近代史の中で日中戦争と太平洋戦争には戸惑い?のような切ない何ともし難い感情が湧き起こります。 

 それは、日本の歴史の中ではつい最近の事ですし、敗戦や原爆といった生々しい記憶が体験していない私にも伝わっているからだと思います。 

 友人の祖父がある有名な戦艦に乗り戦ったという話を聞いたことがありました。 生前その方は戦争については多くを語らず、友人もまた敢えて聞こうとはしなかったそうですが、その戦艦の話だけは少し話してくれたことがあったそうです。 当時は日本というお国のため、残してきた家族のために命をかけて出撃し、必ず勝つ、勝てると信じて疑わなかったといいます。 そして仲間達の戦死を何度も目の当たりにし、終戦を迎え生き残ったことに申し訳なさ、悔しさ、虚しさを覚えたそうです。 

 今の私たちには想像も出来ない時代背景を生きた方の生の言葉は深く重いものですが、戦争の悲惨さを語り伝え、二度と起こしてはいけない戒め、教訓として我々も目覚め続けなければいけないと思うのです。 

 今回は海軍の象徴でもあった戦艦大和を取り上げたいと思います。 昭和16年に開戦してからすぐ、極秘にされた大和は静かに竣工しました。 日露戦争での勝利から大鑑巨砲主義は定着し、その巨大戦艦は海軍の象徴となるまでに時間はかかりませんでした。 しかし、真珠湾で空からの奇襲攻撃に成功した日本軍は、時代は航空機へ移行したことを皮肉にも連合軍側(特にアメリカ)に証明してしまったのでした。 その瞬間から誕生したばかりの大和は過去の産物化してしまった・・・・・ 暗雲は開戦時、いや開戦前の国連脱退から既に始まっていたのです。 

 当時世界最大の46センチの主砲を持つ大和の出番はなかなかなく、ようやく19年のマリアナ沖、レイテ沖海戦でわずかにその巨砲を轟かせますが、戦績は目立ってはいません。 しかしそれでも大和は海軍の象徴として戦意高揚のシンボルであり続けました。 それから一億特攻の先陣を切るように命を受け、最期の沖縄特攻へ向かったのです。 

 そして今から61年前の昭和20年4月7日午後2時すぎ、アメリカの数百機の猛攻、魚雷攻撃を受け、大和は撃沈されました・・・・・3000名とも言われる尊い命とともに・・・・・

 もちろんこの戦争では大和に限らず幾多の戦場で人命が失われました。 戦後戦地から帰国したある方の手記で、(日本は敗戦から学ばなくてはいけない、目覚めなくてはいけない、人命と平和の尊さを訴えなくてはいけない~)という内容を拝見し、涙が溢れました。 今も世界のどこかでさまざまな理由で戦争や紛争は起きています。 過去のこれらの重すぎるほど苦い経験を活かさない限り、本当の意味での戦没者の慰霊にはなりません。 ここに、御霊のご冥福をお祈り致します。
   

 
今日はジョン・レノンのソロ曲ですが、この曲しか思い浮かびません・・・・・

 ☆  Imagine.    (敢えて紹介する必要もありませんね~、その詩とメロディーは人類の永遠のテーマである愛と平和を唄っています)

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