楢崎 龍 (お龍)

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           「イラスト ― 妖艶な美人 と評判だった『お龍』――」

   幕末において一番有名な夫婦といえば、前回の坂本龍馬、そして今回の
       「お龍」(おりょう)こと楢崎 龍でしょうか ――


坂本龍馬は歴史的な活躍(薩長同盟大政奉還など)で名を残した幕末のヒーロー
ですが、その彼を精神的に支え妻となった お龍もまた寺田屋事件(1866年1月23日)
で龍馬の危機を救った気丈な女性として有名ですね。

その寺田屋事件 (※ 伏見の船宿である寺田屋に潜伏していた龍馬らを伏見奉行所
の捕吏が急襲した
) で龍馬は右手(または左右)を負傷 ―― 、
 お龍は危険をかえりみず看護をしました。 そんな献身的なお龍を

    「この龍女がおればこそ 龍馬の命はたすかりたり」

         と姉の乙女へ宛てた書簡で龍馬は感謝の気持ちを伝えます。

その後二人は結婚し、西郷隆盛の勧めもあり薩摩(鹿児島)へ日本初といわれる
新婚旅行へ向う
のでした。

翌1867年はじめ、お龍を知人に預けるといよいよ倒幕へ向け奔走する忙しい
日々を過ごします。

そして運命の11月15日午後9時頃、醤油商・近江屋中岡慎太郎と密談をしていた
龍馬は刺客の 凶刃に―― 奇しくもその日は龍馬の33回目の誕生日でした。
                   (中岡慎太郎も2日後に死亡・・・)

 2ヶ月前、下関に訪れた龍馬と会ったのが最後となったお龍・・・・・




その後のお龍は土佐の坂本家に迎えられますが馴染めず、京都、東京と転々と
する生活が続きます。 
しかし明治8年、横須賀の行商人・西村松兵衛と入籍し西村ツルと改名 ――
    が、酒を飲んで酔っては

 「私は坂本龍馬の妻だった」 と口癖のように語ったといわれるお龍・・・・・

 龍馬との思い出を誇りに生きていた部分も大きかったのでしょう。
1906年(明治39年)、お龍は66歳でその波乱万丈な生涯を終えました。

龍馬が亡くなってから、お龍にとってその存在はさらに大きくなっていった感じも
して切ない限りです。 しかしお龍の支えがあったからこそ、龍馬はあれほどの
国事に集中し尽力出来たのでしょう。


                          
                             2010・3・15  ― ショーン

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 坂本 龍馬

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               「イラスト ― 有名なポーズの龍馬」

 某大河ドラマの影響もあり、幕末のヒーロー 坂本龍馬 が注目されていますね。

実は以前にも龍馬の記事をブログにアップさせていただいておりましたが、尊敬する
人物のためか、かなり私的(?)な記事内容になってしまい一度削除しておりました。
 今回は再度手直ししての記事アップとなります。

※ とはいえ、超有名人の龍馬ですし解説の必要のない偉人ですから、イラスト主体
 の  アップとさせていただきます~け、決して手抜きではございません(汗)

ところで、ご存知の方も多いと思いますが、先日某テレビ番組で上のポーズで
撮られた龍馬のあの有名な写真が実は早朝に撮られていた、という分析結果が
放送されていました。

てっきり(?)、撮影前には入念にヘアスタイルと服装を整えて臨んだ写真なのかと単純
に考えておりましたが、どうやら幕末の写真家として有名な上野彦馬の弟(幸馬)が
朝の7時に龍馬を起こして撮影したのだとか(という説・・諸説あり)
                ・・・・・たしかにエリアシが寝ぐせっぽい・・(汗)

また、当時は屋内で撮影するのが普通なのが、龍馬は一枚は外で撮影しており、
そんなところも既成の概念にとらわれず、スケールの大きい豪快な性格が感じられ
ますね。 そしてかなりの写真好きだったのかも (映るのが・・・)


彼がまとめた薩長同盟大政奉還での活躍、そして亀山社中(のちの海援隊)の
創設 ――― 日本の夜明けを想い倒幕へ向けた陰働きは数知れず・・・

そんな歴史的偉業を短期間で成し遂げたスーパーヒーローはもちろんのこと、
でもやはり彼のもうひとつの魅力は上記の「寝ぐせくらいいいだろ」的な感じの
懐の深さ、人間性なのかも知れませんね。

       
            本当にカッコイイ男です。

        ☆ 坂本 龍馬 記念館

                       2010・3・1   ― ショーン

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 福沢 諭吉

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                           「イラスト ― 晩年の福沢 諭吉」

 この時期 ―― あちらこちらで高校や大学の卒業式が行われ、それぞれの
進路へ向かって旅立つさわやかな季節ですね。 
希望を胸に進学や就職 ――、私も二十年ほど前のことですが就職への希望に
満ちた時がありました(汗)。 もうテスト三昧の日々とはさよなら~(笑)と。
しかし就職したからといって学生の頃のような勉強がなくなるわけもなく、反対に
社会という漠然とした荒波に身を置く・・・というような表現(社会勉強)がしっくりくるの
かも知れませんね。 
マニュアルには書ききれないほどのさまざまな状況があり、毎日が新鮮で刺激的
な社会生活・・・人としてこれが本当の勉強なのでしょうね。
 やはり「生涯勉強」という言葉に納得させられます、ハイ(汗)。


 さて今回の記事は私の尊敬する偉人のひとり ―― 「福沢 諭吉」(敬称略)です。

幕末から明治への劇的な変換は、人々の生活スタイルから価値観まであらゆる
方面で作用し変化をいざないました。 
そうした時代に生きた人々の努力と葛藤は想像を絶するほどです。 
また、混迷した世を生きる現在の私たちが、そうした先人の知恵や思想を
あらためて学ぶ時期に来ているようでもあり、今回は教育と思想の観点から
福沢 諭吉についてアップしたいと思ったのでした――。

 天保5年(1835年)、福沢諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷で生まれました。
翌年父と死別し、故郷の中津(大分県)に帰郷し、家は貧しくも感性の鋭い
しっかりとした少年に育っていきました。

そして黒船来航の1853年、オランダ語の必要性を感じ長崎へ遊学すると
翌年には大坂の緒方洪庵の適塾で勉学に励みます。

    
      < 以下、簡単な略歴 >

1858年、藩命により江戸で蘭学塾を開く。(のちの慶応義塾)
1860年、幕府の使節の従僕として咸臨丸にて渡米し、見聞を広める。
1862年、遣欧使節団としてイギリス、フランスなどヨーロッパ各国を視察。
            (1866年、「西洋事情」初編を刊行)
1872年、「学問のすすめ」刊行開始。
1899年、「福翁自伝」を刊行。
1901年、脳出血で死去。



 と著書のタイトルどおり、福沢は当時西洋事情に精通した第一人者でした。
そして何より彼を有名にした著書「学問のすすめ」は、我々現代人へも絶えず
啓蒙をし続ける名著といって過言ではないでしょう。

  「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずと云えリ」

誰しも一度は耳にしたことのあるこの有名な冒頭の一文は、アメリカ独立宣言
からの引用ですが、やはり人類共通の思想として素晴らしい一文ですね。
そうした不朽ともいえる一文を、あの明治初期という時代に理解し推進していた
福沢諭吉という人物の感性は ―― なんと素晴らしいことでしょう。

そしていつも思うのですが、坂本龍馬や西郷隆盛、勝海舟に木戸孝允など
をはじめ、日本の夜明けともいえるあの時代にはさまざまな思想と立場から
の傑出した人物がなんと多いことでしょうか。
  
  また、今の混迷する政局を彼らはどう見つめるのでしょう・・・


さて、福沢諭吉は幼い頃からの経験からいわゆる封建的な社会を嫌って
いました。 それは生まれながらの家柄や学のある者が優遇されるという
差別的な体験を実感していたため、と云われています。
その証拠に著書「福翁自伝」には、「門閥は親のかたき」とありますし、
だからこそ学問の重要性を悟ったのではないでしょうか。
しかしそれは単に難しい漢文や古文などを学習することではなく、読み書き
ソロバンといった「実学」を推奨したようです。
これは皮肉にも現代の受験戦争とは相反したことでもあり、昨今叫ばれている
今後の教育のあり方、という抜本的な改善が必要なのかも知れません。
 う~ん、福沢諭吉の人生から感じることはいろいろありますね。
     例えば・・・

 「すべての人民は平等であり、学問やその思想は自由である。
    また、家柄や過度な競争による格差社会は誰も望んでいない ――」

      
                            
                  
                        2009・3・21     ショーン

現代語訳 学問のすゝめ
配信元:電子書店パピレス
提供:@niftyコンテンツ
 

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ジャック・ルイ・ダヴィッド

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             「イラスト ― サン・ベルナール峠を越えるボナパルトの模写」
                                        (鉛筆画)


 今回は私の好きな絵画の中から、フランスの新古典主義派であるダヴィッド
「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」をモノクロですが模写してみました。
とは言っても、ただ模写するだけでは・・・と、勝手にイラスト風に描きました(笑)。

みなさんご存知の本物の絵画の方は 260×221cm というビッグサイズで、
それは緻密で迫力のある素晴らしい名作です。 当時のナポレオンの勢いを一枚の
空間に見事再現されていますね! 
また、この作品では有名なエピソードがあります。 
それは、実際のアルプス越えでナポレオンは絵画のような立派な白馬ではなく
「ロバ」にまたがり、また高身長でもなかった~ということです。
つまり新古典主義派のダヴィッドですから、言い方を変えるとある意味「美化」して
描いた・・・ということなのでした。 
 しかしこれは当時の争いの絶えない時代背景も関係しており、一国を引っ張る
リーダーはやはり天才的で力強い存在でなければならず、自然とナポレオン自身
肖像の中に強力な 「天才」 を要求したのだとか・・・。

とはいえ私の描いた模写の方は、細かいところは省略し(汗)、ナポレオンが前面に
目立つように(笑)配慮?しましたが、当然ながら本物の圧倒的な威圧感、存在感、
画力には到底およびませ~ん(大汗)。

さて、ジャック・ルイ・ダヴィッド(1748-1825)ですが、晩年にナポレオンのお抱え
画家として就任し大作を残しました。 
この「アルプス越え」の他にも「マラーの死」や有名な大作―「ナポレオンの戴冠式」
 もありますね。  こうした驚くべき描写力にはただただ頭が下がります。

ちなみに国外の私の好きな画家は、ダヴィンチ、ミケランジェロ、レンブラント、
フェルメール、ラトゥール、そしてダヴィッドなどなど
・・・写実的な画家が多いんです。

 また機会がありましたら「イラスト風の模写」に無謀にも挑戦(汗)してみたい
  と思います~ではでは

                       2009・1・30  ― ショーン

2000ピース ナポレオンのアルプス越え 19-019 2000ピース ナポレオンのアルプス越え 19-019

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後藤 新平

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    「イラスト ― 晩年の 後藤 新平 」
                         (以下、本文中も敬称略)


   ここ数年、「日本」が混迷しています――

年金問題天下りの悪習社会保障費の削減も一因とされる医師や病院施設
の不足
、また昨年9月の「リーマン・ショック」が発端となった世界的な金融危機
それらの影響が派遣労働者の切捨てや、大企業・中小企業問わずの加速度的
倒産を促し、まさに先行き不安な「未曾有」の非常事態となっていることはすでに
ご承知のとおりです。
   年が明け新たな気持ちで臨もうとする多くの人たち――

しかし、今現在残念ながら先見性のある政策や制度が期待できるどころか、
「今」助けを必要とする人々さえも見捨てられそうな切ないニュースが日々流され
胸が締め付けられる思いです。
     はたして本当にこれが政治の限界なのでしょうか。

 
 以前このブログで「白州次郎」の記事をアップさせていただきましたが、
今回はさらに時代をさかのぼり、明治~大正~昭和のはじめに日本
                               (主に首都東京の都市計画)
を近代化させる礎を築いた人物のひとりである「後藤新平」にスポットを当てたい
と思います。
 彼の足跡を辿っていくと改めて気付かされることがあります。
それは政治家という要職は当然ながら先見性をもって社会(国民)のために迅速
に政策を実現することが大切
であり、それによって国民の将来がいかに大きく
左右されるかを如実に証明していたことでした。

 残念ながら、一般的に云われる後藤新平についてのイメージは、いわゆる
 「大風呂敷」という漠然として無機質な表現ですが、しかしそれは適当では
ありません。 
なぜなら後藤はさまざまな要職に就き、その都度将来を見据えた効果的事業
「有言実行」した数少ない政治家なのですから――

      
        以下に後藤新平の略歴を記します。

 ・1857年(安政4年)、現在の岩手県奥州市水沢区に生まれる。
 ・1881年(明治14年)、愛知県医学校長 兼 病院長となり、翌年内務省官僚
        となる。
 ・1890年(明治23年)、ドイツへ留学し、その二年後内務省衛生局長となるも
        1893年の「相馬事件」で一時留置所へ。(のち無罪)
 ・1895年(明治28年)、日清戦争の帰還兵への検疫を担当し、その手腕を
        評価され1898年(明治38年)台湾総督府民政局長に就任。
     (※ 徹底した現地調査を行い、殖産興業に努める。こうした中で優秀な
      人材登用にとりわけ力を入れる。その中に新渡戸稲造の姿もあった。)

 ・1906年(明治39年)、南満州鉄道(満鉄)初代総長となる。
 ・1908年以降は逓信大臣、鉄道院総裁などを歴任。
 ・1920年(大正9年)、東京市長となる。
           (※ この頃衛生面を重視して、塩素入りの水道水を始める)

 ・1923年(大正12年)9月2日、関東大震災直後の山本内閣で内務大臣 兼
    帝都復興院総裁に就任し大規模な再建(区画整理・インフラ整備)に尽力。

 その後、東京放送局総裁、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を歴任。
  1928年(昭和3年)、伯爵となった。

  ――と、略歴だけでもこれだけの要職に就いていましたが、彼はそんな
華やかな経歴に恥じない立派な功績(結果)を後世に残したのです。

 今日の東京の都市骨格を形成した功績は、こうした後藤の「先見性」と
類まれな「実行力」
によるところが大きいのでしょう。
 
 また、後藤はその直情型でさっぱりとした情の深い性格から、さまざまな
エピソードも残しています。

1882年(明治15年)、岐阜で遊説中であった板垣退助が暴漢に襲われました。
しかし当時板垣は自由民権運動の主導者として政府にマークされていたため
医師の中には板垣の治療を躊躇するものもいたそうでしたが、当時医師であった
後藤はすぐに駆けつけ治療にあたっています。 

また、1924年(大正13年)かの正力松太郎が読売新聞社(当時経営難であった)
の経営権を買収し経営するにあたり、元上司であった後藤は資金を工面しました。
このとき彼は、「事業に失敗しても返す必要はない」 と言って正力に差し出したと
伝えられています。
しかし後に読売新聞社が軌道にのり、恩人の後藤へ正力が返済しようとした時
すでに後藤は故人となっていました。 そして正力はさらに大きなショックを
受けるのです。 それは、後藤が差し出したあの事業資金が実は後藤自身の
自宅を抵当に入れてまで与えてくれた大金であった、という事実――
正力は男泣きに泣いたそうです。
 そうして正力はせめてもの恩返しにと後藤の故郷である水沢へ、借りていた
二倍ともいわれる多額の寄付をし、亡き恩人へ感謝を示したのでした。

 また、彼の妻・和子の献身的な理解と包容力も忘れてはならないでしょう。


 最後に、彼の死の直前(1929年)に残された有名な言葉を記します。


 「金を残して死ぬものは下だ。
           仕事を残して死ぬものは中だ。
                    人を残して死ぬものは上だ。」

                    
                               ―― 後藤新平




     関連サイト   ☆ 後藤新平 記念館


後藤新平の「仕事」  /藤原書店編集部/編 [本] 後藤新平の「仕事」 /藤原書店編集部/編 [本]
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   < あとがき >

 一昨年あたりから書籍やテレビ番組などで後藤新平がにわかに注目されて
います。
それは2007年が彼の生誕150周年という節目でもあるからなのですが、
しかし一番の理由は冒頭に述べたような日本のこうした混迷状況が彼のような
政治家をすぐにでも必要としているからではないでしょうか。

         国民目線の、国民を向いた政治を期待します。

                   2009・1・16      ― ショーン

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 西郷 隆盛

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          「イラスト ―敬天愛人  西郷隆盛(1828-1877)」
                                     (敬称略)

 
  西郷隆盛といえば、維新三傑のひとりで皆さんよくご存知のヒーロー的
人物ですね。 歴史にあまり興味のない方でも、坂本龍馬と西郷隆盛の二人
だけは必ずと言っていいほど知っているほどの超有名人。
もちろん、江戸城無血開城西南戦争などで歴史の教科書にも登場します。

 よく知られた西郷のエピソードで、彼は生涯「写真」に写ることを嫌い、写真は
一枚もなかった
・・・と云われています。
そして当然今回の私のイラストも、「彼を描いた肖像画の模写」となります。
西郷さんの写真、一度見てみたかったものですね~。

 ただ一説によると、明治天皇が西郷の写真をご所望になり、強く撮影を勧めた
結果、西郷が一度だけ「しぶしぶ」承諾して撮られた・・・??とか・・?
はたしてそれが本当であれば、きっとどこかに西郷の本当の顔写真が
あるのかも?しれませんね。
いずれにしても「西郷さん」という親しみを込めた呼び方や、こうした肖像画が
まるで写真のように人々の記憶に刻み込まれていることは事実のようですね。


                          ― ショーン 

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 アメリア・イアハート

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1903年12月アメリカのライト兄弟により、 ついに人類は長年の夢であった空への
切符
を手に入れました。 人類が空を飛行するというあらたな手段を得た瞬間
だったのです――
― しかし飛行機を手にした我々の喜びもつかの間、その後の第一次世界大戦
では戦闘機という強力な「兵器」として改良され利用されてしまいます。

                       「イラスト― アメリア・カット(ショート・カット)も流行に 」

 こうした文明の進歩は戦時下における兵器の規模の拡大へ残念ながら
つながります。 逆に、兵器開発による技術革新がもたらす便利な生活もまた
皮肉なことです・・・。

1914年に始まった第一次世界大戦では、人類史上初めて毒ガス戦闘機
そして強力な威力を持つ爆弾などの大量破壊兵器が登場しました。
 言うまでもなく人的な被害もそれまでの戦争にはない残酷で大きなものに
なってしまうのです――。

 この恐るべき大戦がようやく終結し、人々がもとの平和な暮らしに戻ろうと
していた1920年代――アメリカではさまざまな分野で人々の「躍動」が始まり
ます。 
それは経済や文化にとどまらず、希望ある探険や飛行が隆盛を極めることから
もその「躍動」を感じられるのです。

 1927年5月20日(~21日)、世界を仰天させる偉業が達成されます。 
アメリカの飛行家 チャールズ・リンドバーグによる「大西洋単独横断飛行」
が成功する
のです。
「翼よ、あれがパリの灯だ」~という有名なセリフの真偽はともかく、この
フライトが象徴することは、人々が大戦の痛手から立ち直り再びロマンへ
の関心が高くなったということを意味します。 

 それから5年後の1932年5月20日、リンドバーグと同じルートで単独飛行
に挑戦しようとする一人の女性が現れます。 
その女性こそ、伝説の飛行家として知られるアメリカ・カンザス州出身の
アメリア・イアハート なのです。 
1932年当時34歳のアメリアでしたが、その飛行歴は長く、業界では名の
知られた女性でした。

 当時のアメリカでも女性の地位向上を目指す気運は高まっていました。 
そうした状況へ 登場したアメリアは女性達の期待と憧れの的だったのです。
 そんな女性達の熱い眼差しを一身に背負って、カナダ・ニューファンドランド島
のハーバー・グレース(グレース湾)から飛び立つのでした。 

Nec_0053_1
彼女の愛機である深紅のロッキード・ベガは、
当時の飛行機としては高性能として知られています。 
その信頼するベガと一体となり、途中の強い北風や寒さ、そしてさまざまな困難に遭いながらおよそ15時間後アイルランドに到着、見事
女性初の大西洋単独横断飛行に成功するのです。 

 




しかしアメリアはこの偉業に満足することなく、「世界一周」という大きな目標
密かに決意するのでした。 
彼女自身、自分に対する世間の注目が女性の権利を高める効果があること
を十二分に理解していたのです。
1935年1月11日にはその「前哨戦」とも言われるハワイ(ホノルル)から
カリフォルニア(オークランド)までの単独飛行にも成功します。 
(※ 1月11日は、彼女の功績と精神を記念してアメリア・イアハート・デー
                                     
とされている)
そして1937年5月21日、念願の「世界一周飛行」へ向かうのです。

 当時アメリアはこの大計画について、

    「飛行記録が更新される時は、将来のために
              犠牲になる覚悟を持った人が現れた時よ」


              と、今考えると意味深に語っています。

 この飛行ではベガではなくロッキード・エレクトラ双発機)に乗り込んでの
出発でした。  (同乗者は優秀な航法士、フレッド・ヌーナン
二人は東周りで順調に飛行を続け、6月末にはニューギニアのラエ飛行場に
到着。 燃料補給や整備をし、7月2日にホノルル方面へ向けて飛び立ちます。 
ここまで計画の3/4を飛行していた二人に対して、アメリカ国民は無事の成功
を信じて疑わなかったのでした。

  ――まさかこれが彼女のラスト・フライトになろうとは
                誰ひとり想像すら出来なかったのです・・・・・・

  その夜7時をまわった頃、思いがけない電文が受信されます。

       「・・現在地点が分からない・・・」 
       「・・・燃料が不足している・・・・・」


              そして消息が途絶えたのです―――。

 詳しいやりとりは手元の資料にありませんが、管制ではアメリアとフレッドが
広い太平洋上で航路を誤った、という見解に達しました。
  そして最悪でも洋上へ着水していることを願ったのです。

 連絡を受けた時の大統領ルーズベルトは、すぐさま二人の救出へ全力を
入れます。沿岸警備隊、海軍、そして空からも400万ドルをかけたと言われる
大捜索が展開されました。 
   しかし、アメリアとフレッドを発見することはなかったのです――。

 おりしも捜索エリアは日米の間でも緊張の高まりつつあった水域であり、
一説には着水したアメリア達を日本側がスパイとして拘束したのでは??と
ささやかれるほどのキナ臭い時期でした。 
ご存知のとおり、その2年後の1939年、ドイツ軍によるポーランド侵攻
きっかけに、残念ながら世界は再び戦争へと突入していくことになります。
1941年12月、ついに日米が交戦すると、それまでの冒険飛行という夢を
乗せたプロジェクトは余力をを失っていくのでした――。


 アメリアは出発前にこんなことも言っています。

       「これが私の最後の長距離飛行よ」 と・・・


 アメリアが行方不明になってから一年後、国際ゾンタ
              (女性の地位向上を目的とする国際的な奉仕団体)
アメリア・イヤハート基金を発足させます。 これは毎年航空関連専門の
女性研究者などを認定し支援する制度です。
 
 あれから70年――彼女のラスト・フライトは悲しいものでしたが、
その偉業と志はまさに女性の職業的、社会的地位の向上に寄与し、
勇気を与えた素晴らしいものでした。
 
 アメリアの理念は、
          こうして毎年確実に受け継がれているのです――。


    「心の平和を与える代償として、
                 人生が要求するのは勇気である――」

     
                               アメリア・イアハート




☆ 今回は数あるビートルズの曲の中でも
             唯一のインスト・ナンバー~♪


  
♪ Flying. 
  
(ゆったりとしてシンプルながらもセンスを感じますね!)

     ☆ Flying. (音・映像)


 

アメリア・イヤハート―それでも空を飛びたかった女性 Book アメリア・イヤハート―それでも空を飛びたかった女性

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 ☆ 飛行家として女性の地位向上にも尽力した
    勇気ある信念の人――アメリアの生涯。


 ※ なお、頂いたコメント、トラック・バックは英字スパム対策
   の為(最近多いんです)、確認をさせて頂いてからの
   掲載になります~ご了承下さいませ。

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 ジョージ・マロリー

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            「イラスト ― 不屈の精神を持つ伝説の登山家マロリー 」

ご存知の方も多いと思いますが、あの  世界最高峰のエベレスト (チョモランマ - 8848m)に初めて登頂に成功した人物はニュージーランド人の登山家、
エドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイですね。
                 
                 

 しかし、それより29年も前に実は登頂をしていたかも知れない(!)という人物
がいた
のです。
 
今回は、今なお エベレストの謎のひとつに数えられ、語り継がれるイギリスの
伝説の登山家
――ジョージ・マロリーをご紹介します。

 1886年、牧師の家で生まれたジョージ・マロリーは1921年(34歳)にイギリス
第一次 エベレスト遠征隊に召集されます。 
  (登頂にあたってのルートなどの調査が主な目的)
翌22年には登頂を目的とする第二次遠征隊にも参加します。しかし、この遠征
では不運にも雪崩に遭い、7名が亡くなるという事故により断念します。

 1924年には第三次遠征隊が組織され、マロリーにとって「三度目の正直」と
なるはずでした。 当時すでに名実ともに有名な登山家だった彼は、登頂の際に
意外なパートナーを指名します。 
 若く登山経験の浅いアンドリュー・アービィンをパートナーとして指名するのです。
 当時まだまだ開発途上の酸素ボンベは故障が多く、また重量もあるために、
ボンベの扱いに慣れていて体力のあるアービィンを指名したのでした。
 そして6月8日、いよいよ第6ベース・キャンプを後にします―――
     
        運命の登頂へのアタックが始まったです。

 
  当初、軽快に頂上へ向かって登る二人が確認され、徐々に小さくなっていく
彼らの姿からは「初登頂」への期待が高まりました。 
 しかし、第二ステップ(セカンド・ステップ)と呼ばれる難所に挑む 豆つぶほどの
二人を仲間の
オデール目撃したのを最期に、その姿は雲の中へ忽然と
 消えたのでした
・・・・・・・・

Dsc001771251   
                

 「イラスト - 最高峰――エべレスト 」

 

  20世紀初頭の未開地探険ラッシュという背景には、イギリスにとっての国家としての威信も深く関わっていました。 
当時、北極と南極の極点到達とも他国に先を越されていたという経緯があり、
                (アムンゼンの記事参照
 あとは「第三の極点」となっていた最高峰 エベレストを残すのみだったのでした。 
そのためイギリスのエベレストへのこだわりと執念は並々ならぬものだったのです。

 そんな時代背景の中で組織された遠征隊でした。 
しかし第二ステップを最期に消息不明となったマロリーとアービィン――その後の
捜索でもついに発見することが出来ませんでした。  
そしてその消息とともに、後に語り継がれる――

  「登頂に成功したかどうか」という謎が残されてしまった
のです。 

 それから29年――1953年5月29日、ヒラリーとテンジンが登頂し無事に
下山したのでした。  下山したヒラリーは、山頂ではマロリー達が登頂した
「形跡」を見つけられなかった、と伝えました。 
実は、その「形跡」として考えられる「あるもの」に世界は注目していたのです。             
  生前マロリーは、
 
   登頂に成功した時には頂上に「愛妻ルースの写真」を置いてくる
                   
――と、公言していたのでした。
 
    「君と一緒に頂上の景色を見るよ」

と妻に語っていたとも言われます―――何ともロマンティック!

 余談ですが、マロリーは身体能力に優れたばかりではなく、とても柔軟で均整が
とれ、「ギリシャ神のようだ」と形容されていたほどの体格の持ち主だったようです。 
 また、シェイクスピアの「ハムレット」や「リア王」を遠征中も愛読していたという
インテリ(知性派)でもありました。 そんな知的でハンサム、そしてロマンティスト
の彼はさぞやモテたことでしょう。 


 ―――マロリーとアービィンが消息を絶ち75年の歳月が過ぎた1999年5月、
世界中を驚かせるニュースが駆け巡ります。
  彼らを捜索するために組織されたアメリカ隊により、
     ついにジョージ・マロリーの遺体が発見されたのです!
                  (標高 8,160メートル付近) 
そしてその写真はさらに衝撃を与えました。
8,000メートルを越える標高ゆえに、うつぶせのその遺体はほぼ原型をとどめて
いたのです。
右足に骨折が認められたものの、両手はしっかりと岩肌をつかんでいました。 
                           (滑落姿勢でもあるという)
その姿からは、今なお登らんとする登頂へのすさまじい執念を感じるとともに、
人間のロマンや苦難への絶えることのない情熱が伝わるようでした

発見した隊員たちは、その憧れていた伝説の男の聖なる姿に熱いものが
こみあげ、丁重に石を積み埋葬したといいます。 
   そして、遺留品にも彼の妻の写真はありませんでした・・・・・
(ポケットに入っていたハンカチや手紙、缶詰、マッチ、衣類の一部などの遺品
                                         は持ち帰る) 

 
  現在もなおマロリーとアービィンの登頂の足跡は謎のままですが、当時彼が
携行していたカメラが発見されればいつかはっきりすることでしょう。 

 しかしその結果はどうであれ、高所でのさまざまな装備やデータのある今日
とは違った当時の状況であり、なんとセーターにジャケット(!)という今では
到底考えられない軽装で  8,200メートルの標高を登っていたという事実。
 あらためて彼らの強い勇気と信念に敬意を表するとともに、人間の素晴らしい
可能性にただただ感動するばかりです。

 岩肌を両手でしっかりとつかんでいるとはいえ、その静寂の
                          「聖地」を与えられたマロリー ・・・
 
      闘いを終えた彼は、まるで母なる大地に抱かれ
                 静かに眠っているようでもあります―――




    新聞記者 「あなたはなぜエべレストに登るのですか?」

    マロリー  「そこに それ (エべレスト) があるからだよ」


                       「1923年のあるインタビューにて」


 

       当時の登山靴はまだまだ充実していませんでした。
      厚手の皮ででき、靴底には鋲を打ち付けた粗末なもの
      だったようです。 マロリーの「登山靴」もやはり例外では
      ありませんでした。 しかし、そんなマロリーの愛した茶色い
      靴もまた、彼と一緒にエヴェレストに眠っているのです。
       今回の選曲は、同じジョージ(ハリスン)作曲による
      スリリングなナンバーです♪


  Old Brown Shoe.
          
(数あるビートルズの曲の中でも難易度の高い曲♪)
                   

     

☆ アルピニスト 野口 健さんのサイト

          野口 健 公式ブログ



    

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金子 みすず

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              「 イラスト - 20歳の金子みすず 」

 大正時代末期から昭和のはじめにかけて、その創作活動はわずか数年という 

「 幻の童謡詩人 」―― 金子 みすゞ (敬称略)、
今回はその短く悲哀に満ちた彼女の26年の生涯をたどりたいと思います。

                                                     
         
  金子 みすゞ (本名 - 金子 テル)は明治36年(1903年)4月11日、
山口県大津郡仙崎村 (現・長門市仙崎)に金子庄之助、ミチ夫妻の長女として
生まれました。    (その2年後には弟・正祐が誕生)
しかし、明治39年の2月に父・庄之助が亡くなると、弟・正祐は下関市にある
上山文英堂書店支店の店主・上山松蔵、フジ夫妻の養子となる
のでした。

 テルは地元の小学校~そして女学校 (郡立大津高等女学校)へ進みます。 
15歳のとき弟・正祐の育ての親である上山松蔵の妻・フジが亡くなりますが、
翌年縁あって母ミチと松蔵は再婚するのです。 そのためテルは女学校を
卒業後、度々下関の母のもとへ訪れるようになるのでした。
 
 大正12年(1923年)5月、20歳になったテルは下関にある黒川写真館で
写真を撮ります――     (のちにみすゞの代表的な写真となる)
また、母のもとへ移り住むようになり、松蔵の経営する上山文英堂書店支店で
働きだします。 そして、この頃から 「みすゞ」 というペンネームで詩を創作する
ようになり、尊敬する西条八十 (さいじょうやそ)らの児童文学雑誌へ投稿を
始める
のです。 

 しばらくすると、テルが投稿していた作品が次々と雑誌に掲載され
            (「童話」「婦人画報」「婦人倶楽部」「金の星」の四誌)
突如彗星のごとく現れた才能溢れる新人に世間は注目するのでした。 
その感激をテルは「童話」の通信欄へコメントします――
   「~嬉しいのを通り越して泣きたくなりました。」(抜粋)
 掲載にあたり選者でもあった西条八十に
  「若き童謡詩人の中の巨星」 とまで称賛されたテル―― 、
「金子みすゞ」 としての華やかなキャリアをスタートするのです。


    ~ 代表的な作品をご紹介しましょう ~


       「 大 漁 」 

 朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰮の 大漁だ。

 浜は祭りの ようだけど 海のなかでは

 何万の ※鰮のとむらい するだろう


                        「金子みすゞ全集Ⅰ」より
 ※ 鰮 - 鰯(いわし)



     「 星とたんぽぽ 」 

 青いお空の底ふかく、 海の小石のそのように、

 夜がくるまで沈んでる、 昼のお星は眼にみえぬ。

 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。 

 散ってすがれたたんぽぽの、 瓦のすきに、だァまって、

 春のくるまでかくれてる、 つよいその根は眼にみえぬ。

 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。


                        「金子みすゞ全集Ⅱ」より



    「 私と小鳥と鈴と 」

 私が両手をひろげても お空はちっとも飛べないが、

 飛べる小鳥は私のように 地面(じべた)を速くは走れない。

 私がからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、

 あの鳴る鈴は私のように たくさんの唄は知らないよ。

 鈴と、小鳥と、それから私、 
              みんなちがって、 みんないい。


                        「金子みすゞ全集Ⅲ」より




 みすゞが生まれ育った仙崎は漁師の村でした。 
幼い頃から浜や港から聞こえてくる活気ある響きと光景は、みすゞにとって
慣れ親しんだ仙崎の風景でした。 
「大漁」 はそんな日常から生まれた自然な作品なのでしょう。 
しかし、大漁に活気づく光景とは裏腹に、みすゞ自身は魚たちへの 「とむらい」
を感じます
。   魚であっても「親子」がいます、そして漁により「親子」に別れが
生じたことへの切ない想いを彼女はこの作品に込め、供養とともに生命の存在
を感じるのでした。 
 けれどもそれは漁を否定することではなく、食卓に並ぶ魚たちへの感謝を
忘れないという謙虚で慈悲深い姿勢なのでしょう。

 そんなみすゞは目に見えることだけを優先しません。 
「星とたんぽぽ」では、普通の状況では見ることの出来ない 「海中の小石」
「昼間の星」、そして「地中の根」 を心の眼でとらえてその存在を示します。 
それはむしろ、多くの見えないものに抱かれた世界によって、生命は守られ
生かされているのだ
、という悟りにも似た視点から詠まれたスケールの大きい
彼女からのメッセージのような気がします。

 世の中には背の高い人もいれば低い人もいて、スポーツの得意な人がいれば
苦手の人もいます。 接客が苦手でも、山登りなら誰にも負けないくらい得意な
人もまたいるのです。 
 こうしたさまざまな特性を持った人達が同じ地球上で共生しています。 
そんな当然でありながらあらためて表現することの難しい内容を、
「私と小鳥と鈴と」ではいとも簡単に童謡の唄としてのせているのです。 
 それぞれの長所を尊重し合ってお互いを補い、その違った特性から思いやりが
育まれる――
     偏見するのではなく個性の認識が大切なのだ 、と。

 過剰な競争社会と言われる現代にあって、そうしたかけがえのないあらゆる
ものへの温かい認識と慈悲深い姿勢は、みすゞのもつ一番の 「特性」 であり、
ひとりひとりが本来備えている 「人間性」――、現代に生きる我々はもう一度
見つめなおす必要があるのかも知れません
。 
 512編という彼女の作品の数々からは、憂いや切なさを感じながらも、広大で
柔軟な視点での生命への畏敬の念を「素朴で親しみやすい言葉」に置き換えた
温かく優れた 「言霊」 (ことだま)を感じずにはいられないのです。

 そんな才気溢れるみすゞですが、結婚を境に人生が一転してしまいます。
大正15年の2月、年頃でもある彼女は周囲のすすめもあり書店の番頭格で
あった男性と一緒になります。 
 しかし、その夫は放蕩癖があり、度々浮気をしてはみすゞを困らせます。 
文学への理解もない夫は、ついにみすゞに対しても詩の投稿仲間との文通や
投稿そのものを禁じてしまう
のです。 

  愛娘 ふさえ(愛称・ふうちゃん)を授かりますが、もはや娘だけが生きる目的
のような状態に追い詰められます。 辛く悲しい状況の中、彼女は昭和4年の
暮れ頃から娘ふさえの言葉を綴り始めます。 
日々健気に成長していく娘を見守りながら、一瞬でも幼いわが子の天使の
ような振る舞い、言動を逃すまいと翌年2月まで綴られた詩は347編にも
及んだのです―― 「 南京玉 」

 昭和5年2月27日、夫との離婚が成立しました。 
娘と一から出直す決意をしていた矢先、その元夫は娘ふさえの親権を要求して
くる
のです・・・・・ 。 残念ながら、当時の男性上位の時代では女性の主張は
なかなか認められなかったのです――

愛してやまない大切な娘を明日には手離さなくてはならなくなった3月9日、
みすゞは下関の三好写真館で一枚の写真を撮ります。 
ふさえとではなく、みすゞ一人での撮影でした。 

 その夜、いつものように楽しくふうちゃんと入浴するみすゞ――
明日には会えなくなる娘――
(珍しく童謡をいくつも唄ってあげていた、と母ミチは当時を回想します。) 
 入浴後、皆で桜もちを食べて過ごし、
              普段と変わらない朝を迎えるはずでした―――


   翌朝、母ミチは静かに冷たくなっていたみすゞを見つけるのです

――3通の遺書と3冊の遺稿、
             そして前日に撮った写真の預り証とともに―――

 
 それから長い歳月が過ぎ、半ば人々の記憶から忘れられていた 天才・童謡
詩人 「金子みすゞ」 は、児童文学者・矢崎節夫氏との「出会い」によって再び
表舞台へ登場することになります。 
矢崎氏は大学1年の時に「日本童謡集」(岩波文庫)に載せられていた「大漁」
に衝撃を受け、以来それまで散逸していたみすゞの作品を全て収集するため
に奔走する
のです。 昭和57年(1982年)、矢崎氏は東京で生存している
みすゞの弟・正祐氏を奇跡的に探し出します。 
  ついに金子みすゞの全512編の作品が揃うのでした――

 そして、2年後には「金子みすゞ全集」(JULA出版局)が出版され、以来
現在まで多くの人々に感動をもたらしていくのです。 
 平成8年(1996年)からは小学校国語教科書などにも扱われ、 全国の
子供達がみすゞの作品にふれられるように
なりました。  

 その辛い境遇から
         「薄幸の童謡詩人」とも呼ばれた金子みすゞ――
  彼女の魂のこもった童謡は半世紀の年月を経て開花したのです。


  母ミチが記憶している
         「あの夜」のみすゞの最後の言葉があります――

       「 ふうちゃん、可愛い顔して寝てるね。」 

                    
                                      「 敬称略 」



         「金子みすゞ記念館」

         
          「こだまでしょうか」 (朗読) 



 ※ 文章中に引用されている詩は「金子みすゞ全集」
             (JULA出版局)から出典致しました。 
  なお、上記3作品は 「金子みすゞ著作保存会」 の許可を得て
 掲載しています。  転載される場合は、必ず
 「金子みすゞ著作保存会」 の許可を得てください。
 <連絡先> 〒171-0033 東京都豊島区高田 3-3-22 
                       JULA出版局内
  TEL.. 03-3200-7795  FAX. 03-3200-7728      
◇ 参考文献 : 矢崎節夫 著 「童謡詩人 金子みすゞの生涯」
                                                    (JULA出版局)



 時空を超え、現代の我々に深い感銘を与える金子みすゞさん。
その純粋で素朴な「 言葉 」からは、あらゆるものへの温かい愛情を感じ
させます。 それはジョン・レノンのこのソロ作品からも感じることが出来る
かも知れません。

  ☆  Love.   
    ( シンプルな歌詞とメロディーは、どんな複雑な曲よりも雄弁に
      その本質を照らし出しますね~♪)

金子みすゞ南京玉―娘ふさえ・三歳の言葉の記録 Book 金子みすゞ南京玉―娘ふさえ・三歳の言葉の記録

著者:矢崎 節夫,金子 みすゞ,上村 ふさえ
販売元:JULA出版局
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 ☆ 愛娘ふさえを優しく見守りながら綴った、
               母みすゞの愛情溢れる作品集。
 無邪気なふうちゃんの愛らしさに微笑み、
             そして切なくもなる素敵な一冊です。


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 シーボルト

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今から140年前、日本をこよなく愛した
ひとりのドイツ人医師が亡くなりました。  
博物学者としても知られるシーボルト、
 ――今回はその親日家であった彼の
生涯をたどりたいと思います。

                 

                                     「イラスト - 晩年のシーボルト」

 フィリップ・フランツ・シーボルトは1796年2月、ドイツ・バイエルン州ヴェルツブルクで生まれました。 幼い頃からいろいろなものに興味を示す子供だったようです。 
1815年、ヴェルツブルク大学に入学し医学を専攻しますが、他にも地理や
植物、民族などさまざまな分野にも関心は高かったといいます。 そして
この生来の強い探究心が、その後歴史の表舞台に彼を登場させるのです。

 1822年6月、当時西洋医学の高い知識と技術を備えていたシーボルトは、
オランダ領東インド陸軍外科医に任命されます。 そして、翌年8月には
周囲の協力のもと、長崎出島のオランダ商館医として来日――、
 シーボルト27歳の夏でした。

 シーボルトは医者という立場でしたが、日本への関心が人一倍強い人物
でした。 また、当時オランダは貿易相手国の日本をさらに知ることで日本
の地理や産物、文化などを分析し、商品を揃える必要
がありました。   
 つまり、オランダ政府から見ればそんなシーボルトはまさに適任であり、
うってつけの存在だったのです。 

 彼は商館員の健康管理の維持に努めていましたが、特例により出島以外
での活動(診察や薬草の採集など)を許可されていました。そんなある日、
診察に来ていた16歳の楠本 滝と知り合います――互いに惹かれあう二人
――恋におち、結婚するまでにそう時間はかかりませんでした・・・。

 1824年に入ると、長崎郊外の民家を購入し、日本人の医学の門下生達
へ西洋医学の講義を行います
。(鳴滝塾) 
また、門弟達にさまざまな課題(歴史、地理、生物、文化などなど)を与え
オランダ語でレポート提出させるなど、効率よく「日本」のデータを収集し
研究に役立てます。 
彼の研究は多岐に渡りますが、中でも植物学には思い入れが強くオランダ
へはさまざまな種類の種子を送っています。 
 (のちに刊行する「日本植物誌」により紹介されることになる、妻 “お滝さん”
   から命名したアジサイの学名――「ハイランドゲア・オタクサ」は有名)
 1827年5月、愛する“お滝さん”との間に愛娘 イネ(おいね)が誕生――
この数年間がシーボルトの日本でのもっとも幸せなひとときだったのでしょう。

翌1828年、来日して5年の任期を終えたシーボルトに災難がふりかかります。
 帰国の途につくシーボルト一行を乗せた船(ハウトマン号)が、おりからの
暴風雨により長崎湾で座礁してしまいます。 
そして積み荷から、当時国外へは持ち出しが禁止されていた日本地図や
葵の御紋の入った羽織などさまざまな物品が見つかり没収されるのです
――
                 (シーボルト事件
こうしたことから他国のスパイではないかなどの疑いをかけられ、約1年も
取調べを受けるのです。 その間、自責の念にかられ自暴自棄になる
シーボルトをお滝は懸命に支えるのでした。 

 1829年10月、ついに判決が下り国外追放の身となったシーボルト――
お滝とイネは法律上 連れていくことが出来ず、門人の二宮敬作らに二人の
身を預けます。 
     そして、失意のまま長崎を後にするのでした・・・・・。

 帰国後、シーボルトはその膨大な日本での研究成果をまとめ始めます。  
  集大成とも云える三部作~
「日本」、「日本植物誌」、 「日本動物誌」の刊行を開始するのです。 
また、その他日本についての詳細なデータ満載の彼のコレクションの評価は
高く、オランダ政府はそれら資料を買い上げるに至るのでした。 

日本を離れてからもずっとお滝やイネを想い続けていたシーボルトでしたが、
1845年にベルリンでヘレーネという女性と再婚――
    3男2女に恵まれます・・・。
 
 1840年のアヘン戦争辺りから見られる、欧米によるアジアに対する「開国」
への積極的な動きを危惧したシーボルトは日本の立場を心配し、オランダ
政府や親交のあったアメリカのペリー提督へ向けて、「平和的な開国を」という
旨を進言した
といいます。 
ペリーは1853年に日本へ訪れる前に、シーボルトやケンペル
                            (ドイツの博物学者・医学者)
の著書を熟読し、日本の文化や心情を研究していたと言われています。

 そんな「黒船来航」から6年が経った1859年8月、シーボルトはオランダ
貿易会社顧問として再び長崎の地を踏むのです。
                (長男・アレキサンダーを連れて) 
30年の時を越えて、お滝やイネ、そして恩人となった二宮敬作らと感動の
再会を果たすのでした
――「君たちを忘れたことはなかったよ」 と。 
 出島に戻ると貿易会社での仕事の傍ら、かつて開いていた「鳴滝塾」の
民家を買い戻し診察を行うようになります。 
――3年後の1862年4月、幕府顧問を解雇されるとそのまま帰国――
   この時が日本での最後となりました。

 帰国後は官職を退職し、故郷ヴェルツブルクに戻ります――
                            (のち、ミュンヘンへ移る)
そして1866年10月18日、その人生をかけて日本の研究や医療などに
尽力したシーボルトは70年の生涯を閉じました。
 
彼の研究成果が凝縮された書物とさまざまなコレクションは、欧米をはじめ
世界各国に極東の神秘の国 「ニッポン」を充分に紹介し、認知されるきっかけ
をもたらしました
。 
また、長崎での門弟から二宮敬作や高野長英などの優秀な医学者・蘭学者を
多数輩出するなど、育成への努力を惜しむことはありませんでした。 
娘のイネも二宮敬作らに師事し、立派な産科医となり日本初の女医として
評価されていきます。 
     (公には荻野吟子が女医第1号である)

 その後、イネは父 シーボルトの残した鳴滝の土地の確保や保存に努めます。
 ~現在、シーボルト記念館が跡地とともに現存し観光客でにぎわいを見せ
ますが、これらはイネの熱意ある尽力の 功績とも言えるのでしょう。 

長崎の街並みを一望できる皓台寺に、
        イネは母・滝そして恩師・二宮敬作と並んで静かに眠っています

毎年6月になると長崎市の花でもあり、
        シーボルトの好きだったアジサイ――「オタクサ」
                 人々をそっと見守るように優しく咲き誇るそうです。

                               (敬称略)

  ☆  シーボルト記念館

  ☆  黄昏呆助さんのサイト記事 (荻野吟子、楠本 イネ)

  ☆  ぴのさんのサイト記事 (シーボルト事件)

 

 長崎で出逢った頃、「お滝さん」と何度も愛しく呼んだであろう
        シーボルトを想像しました――
    今回はジョン・レノン十代のときの作品、
              ~恋する気持ちは抑えられない?!

 ☆  I Call Your Name.
  (12弦ギターと間奏でのリズムが粋な、元気いっぱいの曲♪)

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 ☆ シーボルトの愛した植物を見つめながら
           自分色に完成出来るワンランク上のぬりえです!

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