« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

 シーボルト

Dsc00443112
 
今から140年前、日本をこよなく愛した
ひとりのドイツ人医師が亡くなりました。  
博物学者としても知られるシーボルト、
 ――今回はその親日家であった彼の
生涯をたどりたいと思います。

                 

                                     「イラスト - 晩年のシーボルト」

 フィリップ・フランツ・シーボルトは1796年2月、ドイツ・バイエルン州ヴェルツブルクで生まれました。 幼い頃からいろいろなものに興味を示す子供だったようです。 
1815年、ヴェルツブルク大学に入学し医学を専攻しますが、他にも地理や
植物、民族などさまざまな分野にも関心は高かったといいます。 そして
この生来の強い探究心が、その後歴史の表舞台に彼を登場させるのです。

 1822年6月、当時西洋医学の高い知識と技術を備えていたシーボルトは、
オランダ領東インド陸軍外科医に任命されます。 そして、翌年8月には
周囲の協力のもと、長崎出島のオランダ商館医として来日――、
 シーボルト27歳の夏でした。

 シーボルトは医者という立場でしたが、日本への関心が人一倍強い人物
でした。 また、当時オランダは貿易相手国の日本をさらに知ることで日本
の地理や産物、文化などを分析し、商品を揃える必要
がありました。   
 つまり、オランダ政府から見ればそんなシーボルトはまさに適任であり、
うってつけの存在だったのです。 

 彼は商館員の健康管理の維持に努めていましたが、特例により出島以外
での活動(診察や薬草の採集など)を許可されていました。そんなある日、
診察に来ていた16歳の楠本 滝と知り合います――互いに惹かれあう二人
――恋におち、結婚するまでにそう時間はかかりませんでした・・・。

 1824年に入ると、長崎郊外の民家を購入し、日本人の医学の門下生達
へ西洋医学の講義を行います
。(鳴滝塾) 
また、門弟達にさまざまな課題(歴史、地理、生物、文化などなど)を与え
オランダ語でレポート提出させるなど、効率よく「日本」のデータを収集し
研究に役立てます。 
彼の研究は多岐に渡りますが、中でも植物学には思い入れが強くオランダ
へはさまざまな種類の種子を送っています。 
 (のちに刊行する「日本植物誌」により紹介されることになる、妻 “お滝さん”
   から命名したアジサイの学名――「ハイランドゲア・オタクサ」は有名)
 1827年5月、愛する“お滝さん”との間に愛娘 イネ(おいね)が誕生――
この数年間がシーボルトの日本でのもっとも幸せなひとときだったのでしょう。

翌1828年、来日して5年の任期を終えたシーボルトに災難がふりかかります。
 帰国の途につくシーボルト一行を乗せた船(ハウトマン号)が、おりからの
暴風雨により長崎湾で座礁してしまいます。 
そして積み荷から、当時国外へは持ち出しが禁止されていた日本地図や
葵の御紋の入った羽織などさまざまな物品が見つかり没収されるのです
――
                 (シーボルト事件
こうしたことから他国のスパイではないかなどの疑いをかけられ、約1年も
取調べを受けるのです。 その間、自責の念にかられ自暴自棄になる
シーボルトをお滝は懸命に支えるのでした。 

 1829年10月、ついに判決が下り国外追放の身となったシーボルト――
お滝とイネは法律上 連れていくことが出来ず、門人の二宮敬作らに二人の
身を預けます。 
     そして、失意のまま長崎を後にするのでした・・・・・。

 帰国後、シーボルトはその膨大な日本での研究成果をまとめ始めます。  
  集大成とも云える三部作~
「日本」、「日本植物誌」、 「日本動物誌」の刊行を開始するのです。 
また、その他日本についての詳細なデータ満載の彼のコレクションの評価は
高く、オランダ政府はそれら資料を買い上げるに至るのでした。 

日本を離れてからもずっとお滝やイネを想い続けていたシーボルトでしたが、
1845年にベルリンでヘレーネという女性と再婚――
    3男2女に恵まれます・・・。
 
 1840年のアヘン戦争辺りから見られる、欧米によるアジアに対する「開国」
への積極的な動きを危惧したシーボルトは日本の立場を心配し、オランダ
政府や親交のあったアメリカのペリー提督へ向けて、「平和的な開国を」という
旨を進言した
といいます。 
ペリーは1853年に日本へ訪れる前に、シーボルトやケンペル
                            (ドイツの博物学者・医学者)
の著書を熟読し、日本の文化や心情を研究していたと言われています。

 そんな「黒船来航」から6年が経った1859年8月、シーボルトはオランダ
貿易会社顧問として再び長崎の地を踏むのです。
                (長男・アレキサンダーを連れて) 
30年の時を越えて、お滝やイネ、そして恩人となった二宮敬作らと感動の
再会を果たすのでした
――「君たちを忘れたことはなかったよ」 と。 
 出島に戻ると貿易会社での仕事の傍ら、かつて開いていた「鳴滝塾」の
民家を買い戻し診察を行うようになります。 
――3年後の1862年4月、幕府顧問を解雇されるとそのまま帰国――
   この時が日本での最後となりました。

 帰国後は官職を退職し、故郷ヴェルツブルクに戻ります――
                            (のち、ミュンヘンへ移る)
そして1866年10月18日、その人生をかけて日本の研究や医療などに
尽力したシーボルトは70年の生涯を閉じました。
 
彼の研究成果が凝縮された書物とさまざまなコレクションは、欧米をはじめ
世界各国に極東の神秘の国 「ニッポン」を充分に紹介し、認知されるきっかけ
をもたらしました
。 
また、長崎での門弟から二宮敬作や高野長英などの優秀な医学者・蘭学者を
多数輩出するなど、育成への努力を惜しむことはありませんでした。 
娘のイネも二宮敬作らに師事し、立派な産科医となり日本初の女医として
評価されていきます。 
     (公には荻野吟子が女医第1号である)

 その後、イネは父 シーボルトの残した鳴滝の土地の確保や保存に努めます。
 ~現在、シーボルト記念館が跡地とともに現存し観光客でにぎわいを見せ
ますが、これらはイネの熱意ある尽力の 功績とも言えるのでしょう。 

長崎の街並みを一望できる皓台寺に、
        イネは母・滝そして恩師・二宮敬作と並んで静かに眠っています

毎年6月になると長崎市の花でもあり、
        シーボルトの好きだったアジサイ――「オタクサ」
                 人々をそっと見守るように優しく咲き誇るそうです。

                               (敬称略)

  ☆  シーボルト記念館

  ☆  黄昏呆助さんのサイト記事 (荻野吟子、楠本 イネ)

  ☆  ぴのさんのサイト記事 (シーボルト事件)

 

 長崎で出逢った頃、「お滝さん」と何度も愛しく呼んだであろう
        シーボルトを想像しました――
    今回はジョン・レノン十代のときの作品、
              ~恋する気持ちは抑えられない?!

 ☆  I Call Your Name.
  (12弦ギターと間奏でのリズムが粋な、元気いっぱいの曲♪)

花の塗り絵―誰でも簡単に塗れる名画、豪華16枚 初公開!幻のシーボルト・日本植物コレクションより Book 花の塗り絵―誰でも簡単に塗れる名画、豪華16枚 初公開!幻のシーボルト・日本植物コレクションより

販売元:オークラ出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 ☆ シーボルトの愛した植物を見つめながら
           自分色に完成出来るワンランク上のぬりえです!

   ※ なお、頂いたコメント、トラック・バックはスパム対策
     の為(最近多いんです)、確認をさせて頂いてからの
     掲載になります~ご了承下さいませ。

| | コメント (38)

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »