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 白州 次郎

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                「 イラスト - 49歳頃の 白州 次郎 」



       もうす ぐ61回目の終戦記念日です。 

戦後の6年間、日本はまだ占領下にありました。
  1951年9月の サンフランシスコ講和会議において正式に独立が認められるまで
にはさまざまな人達の尽力があったのです。
 
                                                      

  中でも異色な魅力を放つ「白州 次郎」(しらす じろう - 敬称略)について
 話したいと思います。 
白州次郎は1902年2月、現:兵庫県芦屋市の貿易商に生まれます。 
裕福な家系で育ち、17歳から9年間をイギリス・ケンブリッジ大学で過ごし、
本場の語学と紳士道を学ぶ
のです。 また、在学中には高級車ベントレーを
乗り回すなど、ここでの貴重な経験がのちの彼の人生の指針となるのでした。

 帰国後には樺山伯爵家令嬢の正子(のち作家、随筆家)を紹介され互いに
ひとめぼれ~のちの有名な白州次郎・正子夫妻が誕生するのです。 
白洲家は経済的な問題に遭いながらも、その後白州はいくつかの会社の
取締役を歴任するなどして過ごしました。 

 ~私が初めてこの白州次郎という人物を知ったのは4~5年程前だった
と思います。 友人から「プリンシプルのない日本人」という本(彼唯一の著書)
を受け取ったのです。 何気に読み始めた私はその内容にどんどん引き込ま
れていきました。  「当時、こんな日本人がいたのか!」 
                              ~と正直驚いたものです。 
彼についてよくご存知の方もいらっしゃると思いますが、終戦記念日を控えた
今 、  あらためて記事にしたいと筆を執りました。

 日本が戦争に敗れてまだ間もない1945年(昭和20年)12月、当時外務大臣
であった吉田 茂の要請を受け、マッカーサーを最高司令官とするGHQ
                                   
(連合国軍総司令部)
との窓口となる役職(終戦連絡中央事務局参与)に白州次郎は就任しました。
 (吉田が“正子を通じて”親交のあった白州を、欧米の事情に精通し語学も
     優れている
ことから抜擢したと言われる)  
       
       そんな白州に最大の仕事が訪れます―― 。

 マッカーサー草案に基づき作成された日本国憲法の草案の翻訳白州を
中心として行われました。 日本側が作成した草案は却下され、半ば一方的に
GHQが一週間ほどで作成した憲法草案を翻訳せざるを得ないという屈辱的な
状況での翻訳でした。 
のちに白州は著書で 、
「占領中のアメリカが作成したものではなく、国民の総意でつくるものだと思う
         ~我々がつくった我々の憲法がほしいのだ」
 
     と苦々しく語っています。 

 この時期、白州の人柄を示す堂々とした有名なエピソードがあります。 
敗戦の年のクリスマス、白州は天皇からの届け物をマッカーサーへ持参しました。
 折りしもテーブルの上は他のプレゼントでいっぱい――マッカーサーは
あろうことか天皇からの品を 「その辺に置いてくれ」という仕草で示したのです。
  白州は激高しました、  
  「天皇陛下の贈り物を、その辺に置けとは何事か!」 
  マッカーサーは慌てて新しいテーブルを用意しました。  
(今年4月、「マッカーサーを叱った男」としてNHKでも放映されましたね)

 また、GHQの高官(民政局長)であったホイットニーからお世辞で
「あなたの英語はお上手ですね」と言われると、すかさず
   「あなたも、もう少し勉強すれば一流になりますよ」
  ときり返したと言います。 ここにも彼の持論であった  
   「戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない」
    という気概が感じられますね。 
 白州はこうした言動や堂々とした体格(185センチの長身)、  そして
イギリスで学んだ紳士的な物腰から~「従順ならざる唯一の日本人」として、
GHQに一目置かれる存在だったのです。

  1951年(昭和26年)9月8日、日本が7年ぶりに主権を回復する
サンフランシスコ講和会議の席上、首相・吉田 茂の受諾演説は「日本語」で
行われました。 当初GHQから用意されていた原稿は英文でしたが、同行して
いた白州はここでも“気概”を示しました。 
いまや主権を取り戻した日本の誇りと面子(メンツ)を込めて、吉田首相に
「日本語」で読むことを進言したのです。
 
  ~独立が正式に叶ったこの夜、白州は男泣きに泣いたそうです~ 

 その後の白州は意外な人生の進路を選択します。 まるで政界での役目を
終えたかのように吉田 茂の退陣とともに身を引き、 東北電力の会長になる
など実業界に身を置くのです。 こういった先見性や権力にこだわらない自由
な思想は、かの坂本龍馬と白州はよく比較されたりしましたが、個人的には
「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」の長州の革命児~高杉晋作を
連想させます


  晩年は留学時から親しんでいたゴルフ好きが高じて、1976年に
軽井沢ゴルフ倶楽部」理事長を務めますが、ここでも権力者に対し厳しく
接する有名なエピソードを残します。 
~ある時、車のドアを開け運転手に靴ひもを結ばせている会員がいました。
 それを見ていた白州は烈火のごとく言ったのです。
      「おまえは手がないのか!」
 また、 ある時の首相がSP(警護)や新聞記者を引き連れて訪れた時、
入場の許可を求めにきた秘書に――
     「会員以外は立ち入り禁止だ!」と厳しく突っぱねました。
 こうしたマナーの悪い者へは首相と言えど容赦なく一喝する一方、
礼儀正しいメンバーへは優しかったと言います。

  白州の死後、当時のキャディさん達に思い出話を取材すると、
「本当に優しい方だった・・・」 と涙ぐんだそうです。 
いかにも「プリンシプル」(原理原則、信条)を念頭に、権力に驕る(おごる)
ことなく筋の通った行動をしていた彼らしい逸話でした。

 80歳まで愛車のポルシェ911に乗り、静かに しかしさっそうと悠々自適に
過ごしていた白州は 1985年(昭和60年)11月、風のようにその83年の生涯
を終えました・・・・・
 彼が愛妻の正子と大戦中から40年以上も住んでいた旧白州邸   
~「武相荘」(ぶあいそう)が一般公開されており、(館長は長女・桂子)
生前の白州次郎・正子夫妻を偲ぶ多くの方が訪れているそうです。

             「武相荘」(ホーム・ページ)
 
 今、静かに注目されている白州次郎~混迷する現在の政局に
   彼のような政治家を待望する表れなのかも知れません
      
――プリンシプルを実践する政治家を・・・・・



                                         ― 2006・8・10   

 今回は白州次郎の生きざま同様、「粋で型破り」な名曲を選曲!

 ☆ A Day In The Life.
  (オーケストラによる壮大なサウンドは時空を超える?!)



風の男 白洲次郎 Book 風の男 白洲次郎

著者:青柳 恵介
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 ☆ 「日本で最初にジーンズをはいた男」
     とも言われる、掟破りのナイス・ガイ、
      風の男~白州 次郎の伝記!

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 二十四の瞳

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      「イラスト - 名女優・高峰秀子演じる~大石久子先生」

 明日8月5日は作家・壺井 栄(敬称略)の誕生日です。 
そして、壺井 栄と言えばすぐに思い浮かべる小説がありますね、皆さんご存知の
有名な「二十四の瞳」です。
 昭和三年の時代設定で始まるその小説は、あの忌まわしい太平洋戦争を挟みながらも、小豆島(しょうどしま)の小さな寒村を舞台に力強く生きる先生と生徒の物語
でした。  

 映画監督・木下恵介は、栄の作品~「母のない子と子のない母」(1951年発表)
を映画化したいと考えていましたが、権利が他に決まってしまい実現出来なかった
という苦い経験がありました。 それではと今度は雑誌「ニューエイジ」に連載され
はじめた「二十四の瞳」に注目~映画化すべく、急いで栄に連絡をとるのです。 
 彼の熱意を感じた栄は、映画化に同意します。
      ― のちに、日本中が涙で濡れる名作の撮影が始まるのです ―

 早速、全員が主役でもある二十四人の子役(成長したシーンから登場する子役
十二人を含む)が一般公募され、約3600人の中から選ばれます。    
そして、最も重要な先生役・大石久子には日本的な笑顔の似合う女優・高峰秀子
が抜擢されます。
 
 撮影が始まると、監督・木下は小豆島の自然をスクリーンに残すような配慮も
見せます~撮影はその日の天候を優先に組み立てられ、天気に合ったシーン
を撮っていくという方法
がとられたそうです。 
そのため子役達はセリフをひととおり覚えた状態で撮影に臨むというベテラン
俳優真っ青(?)な準備を求められたとか・・。

 かくして数ヶ月に及ぶ島での撮影を無事終え、日本映画の不朽の名作
と言われる「二十四の瞳」は完成するのです。
         (1954年9月15日公開)

    
   ~ あらすじ ~

 昭和三年四月四日、瀬戸内海に面したある分教場へひとりの
若い女性、大石久子先生が赴任して来ます~離任する小林先生の代わりに
十二人の一年生を受け持つことになるのです。

 ある日その「おなご先生」は足をケガしてしまい自宅で療養することになります
子供達は先生を慕って、内緒で8キロも先の大石先生を訪ねようとするのです。 
幼い足での山歩きで、くじけそうになりながらも子供達は泣きながら歩くのでした
~そして通りかかったバスに偶然にも先生を見つけ追いかけます~気付いた
大石先生とやっとのことで再会するのです・・・
 
   先生 「みんな、どうしたん?」 
  
  生徒達 「先生の顔、見にきたん
                        (会いたかったよ・・・)
     
     ――みんな涙が溢れるだけでした――

  やがて、戦争という暗い影が彼らを包み、
 ついこの間まで平和で穏やかであったこのささやかな
            「ふれあい」までも引き裂くのです・・・・・・・・



 
 太平洋戦争を背景にしながらも、詩情豊かに描かれる瀬戸内の一角での
物語
~しかしそれは、当時全国のいたるところで同様に起こっていた悲しく
切ない光景のひとつだったのでしょう。         
  前回の記事である「風と共に去りぬ」(記事参照)はもちろんのこと、
この作品もよく言われるような単に反戦というストレートなテーマだけではなく、
どんなに辛い状況からでも前向きに希望を求める人間の強さをメインテーマ
にしている
気がしてなりません。 
 また、監督・木下恵介が重要視した美しい風景は、人間の行う戦争という
 愚かで醜い行為
をスクリーンの中で対比させて表現しているようでもあり
  ますね。 

 1956年11月、上映後の全国的なヒットに伴い、あらためて平和を願う
気運も高まり「平和の群像」が建てられます。
 大石先生と十二人の生徒をかたどったそのブロンズ像は、現在も小豆島・土庄
                                          (とのしょう)
港を訪れる人々を出迎えてくれます。  
また、1987年に女優・田中裕子が大石先生を演じてリメイクされた撮影時の
セットが「映画村」として残され、観光スポットとしても定着しています。
(その後、「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年作品)でも木下恵介監督は香川
   の男木島で一部ロケを行う)

 小豆島出身の原作者・壺井 栄は樽造りの職人の家に生まれました。   
元来子供好きの栄は素朴でとても優しく、母性のあるたくましい人物だった
と言います。 
それゆえに、栄が世の子供達の平和を終生に渡り強く願っていたと言われる
ゆえんなのでしょうね。

 さて、撮影を終えた子役達ですが、数ヶ月を一緒に過ごし育まれた友情
(と言うより家族のような感覚になっていたという) はその後も本人達やその
家族を交えながら現在も続き、会えばまるで  大家族のような付き合い
されているそうですね~。 こうしたことからも、彼女の願いが受け継がれ
芽を出した素晴らしいつながりを感じることが出来ますね。
 劇中流れる唱歌~「あおげば尊し」や「浜辺の歌」、「七つの子」なども効果的で、
力強く生きていく人々を優しく包んでいるようでした。                              



 
 今回はこの作品で特に感じる、子供達の純粋な愛情をイメージして優しい
  この曲を選曲します♪

 ☆ Here, There And Everywhere.
  (Yesterdayと並ぶポールの名曲と言われたりしますね♪)

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 ☆ ~大石先生と十二人の生徒達との心のふれあいを描く~
      日本映画史上に燦然と輝く永遠の名作!!

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