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 アムンゼン

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              「イラスト - アムンゼンと南極のオーロラ」

 

1911年12月14日ノルウェーの探険家ロアルド・アムンゼンは人類初の南極点到達をはたしました。   しかし、その到達という歴史的快挙に至るにはさまざまな過酷な闘いがあったのです。

 1872年、ノルウェー・オスロ近郊で生まれたアムンゼンは、幼少期に「北極探険史」(ジョン・フランクリン著)を読み、極地探険家を志したといいます。 成長しオスロ大学で医学を学びますが探険への夢を諦めきれず、1897年ベルギーの探険隊(ベルギカ号)に加わり経験を積みます。 これらは結果的にすべて来たる「その日」に備えてのアムンゼンの準備となったわけなのですが・・・

 彼はその小さい頃からの夢であった「北極点到達」を実現すべく、同じノルウェー出身の探険家ナンセンから「フラム号」を借りると、北極へ向けての準備を進めるのでした。 そんな矢先、アメリカのピアリーが北極点へ到達した(1909年4月6日)という知らせを受けます。 動揺を隠し切れないアムンゼンでしたが、密かに南極点へ目標を変更し、モロッコの西、マディラ島付近まで航行した時に初めて乗員達へ南極点を目指すことを宣言します。 この時、乗員達はうすうす感じていたのか大喜びで賛同したといいます。 そして、南極を先に目指していたイギリスのスコット隊に早速電報を打つのでした。「我らもまた、南極へ向かう」 と。 

 電報を受けながらも、当初は南極の調査などでデータの豊富なスコット隊にとって、まるでデータに乏しいノルウェーのアムンゼンはさほど眼中にありませんでした。 データに沿って事を進めれば順調に極点への到達は実現出来ると考えていたのです。しかしスコット達にとって現実には厳しいスケジュールでした。学術調査をしながら極点へ向かう計画であったため、その往復距離はざっと3,000kmを超える大掛かりな調査となるものでした。    これは北海道の稚内から沖縄南端(石垣島など)までに匹敵する距離です。 

 一方のアムンゼンは南極点を目指すのみ、というはっきりした目的があったため、デポ(要所ごとに食糧や荷物を貯蔵する所)のポイントも明確にすることが出来ていたのです。 この目的への明確な計画や意識の点も、その後の両隊の運命を分けてしまうことになるのでした。

 アムンゼンは少年の頃から北極探険への憧れもあり、体力作りも行っていました。 また、冬でも部屋の窓を開けては耐寒訓練をしたり、船舶の資格を取るなど航海術も学び、エスキモーからは極地での行動の仕方を吸収していたのです。 ~準備は万全でした。

 1911年、南極も夏の期間が訪れると(南極では12~3月が夏の時期とされる)、いよいよ両隊は探険へ向けて出発を急ぎます。 アムンゼン隊はエスキモー犬約50頭とソリに分乗し、スコット隊は耐寒馬10頭と雪上車(電動ソリ)で出発。 ここに国の威信とプライドを懸けた人類史上最も長く過酷なレースが始まったのです。

 夏の時期とは言え、南極は気温マイナス30℃の世界であり、ひとたびブリザードになれば気温もさらに下がり、また視界も遮られる極限の世界!  それはのちにスコットの日記に記されていた   「極点への到達という名誉でもなければ、ここはとても恐ろしい場所・・・」 という記述にも表れているのでしょう。 

 レースが始まり一週間もすると、両隊の明暗は早くも現れます。 スコット隊の雪上車が故障し、寒さに強いはずの馬が次から次へと倒れていくのです。 結局、往路の半分を過ぎたところで頼みの馬が全滅してしまいます。 そしてこれは、300kg というソリを人力で曳くことになったことを意味しました。 悲劇の前兆とも思える致命的な出来事だったのです。 (後の分析では、この時に引き返していたとしたらスコット隊は全員生還出来たと言われている) 

 アムンゼンも時折ブリザードに悩まされながらも犬ゾリやスキーを活用し、徐々に極点へ近付いていました。 そしてついに、1911年12月14日アムンゼン隊は南極点に到達し、ノルウェーの国旗をそのポイントに翻すのでした!  冷静に正確な位置を計測し終え、「我々は1月25日には基地に帰るぞ」と隊員達に指示を出すとまっすぐ帰路につきます。(事実、1月25日に予定通り戻ります) 

 スコット隊は天候の悪化と体力の消耗でなかなか前進出来ませんでしたが、1912年1月17日ついに彼らも極点に到着するのです。 しかし、そこで彼らが見たものは、ノルウェー国旗とアムンゼンの残していった小さなテント(中には食糧と手紙が入っていたとされる)でした。 スコット一行は失意とともに帰路につくしかありませんでした。(その時の写真が残っていますが、がっかりと肩を落としたスコット隊が写っています) 

 その後のスコット隊はもう悲劇としか言いようがありません・・・  2月に入ると凍傷により一人が亡くなり、3月には一人が行方不明(覚悟の自殺といわれる)、残ったスコット達3人もブリザードと寒さ、そして体力の消耗で再びそこから動くことは出来ませんでした・・・近くのデポまであと18kmというところだったのです。   ――同年11月の捜索で発見された時、テント内には学術調査資料がきちんと並べられていたといいます。
 ――3月29日の最後の日記のページとともに・・・・・

 こうしてアムンゼンが南極点を制覇し 、男たちの生死をかけたドラマは幕を閉じたのです。 ちなみに、同時期に少し遅れて日本の白瀬 (のぶ)が南極点を目指していましたが、残念ながら途中で断念しています。 (日露戦争での勝利とこの白瀬の勇敢な挑戦は、当時世界に日本の存在をあらためて知らしめたと言われる) 

 その後のアムンゼンは、1925年に資産家のエルズワースと飛行艇で北極探険に挑んだり(これは失敗に終わる)、翌1926年には飛行船「ノルゲ号」で北極海横断飛行に成功します。 相変わらず極地探険家の第一人者として活動していました。  しかし、このノルゲ号による成功を、一緒に飛行していたイタリア人探険家  「ノビレ」が成功を独り占めにする行為に出たことで、二人は絶縁し不仲になります。 

 そんな中、1928年6月そのノビレの乗った飛行船が北極探険中に遭難してしまいます。 この時アムンゼンはそれまでの不和を断ち切るようにノビレ救出に向かうのでした。それは同じ探険家として極限状態を誰よりも知っていたからだとも、彼本来の紳士的な優しさからだとも言われます。その結果、ノビレは無事に救助されましたが、アムンゼンは二度と戻ることはありませんでした・・・・・ 資料では救助に向かった当日、スピッツベルゲン付近で消息を絶った、とあります。――同年10月、彼の乗っていた飛行艇の破片がノルウェー沖で見つかるのでした・・・

 「探険家は自宅では死なないものだ」 と何かで読んだことがあります。 彼ら探険家の行動には単に名声を得たいから、だけでは説明のつかないものがありますが、ひとつ言えることは、未開地への探究心が誰よりも強く行動的であるということでしょうか。 
アムンゼンにしても彼の顔に深く刻まれたシワは、何度も極限を生き抜いてきた証しでもあり、その純粋な瞳には未知への限りない好奇心が秘められていたのでしょう。 
 
~そこには何故かうらやましいくらいの
                  「男」を感じざるを得ないのです~


 
 ♪今日の選曲は、なんとも哀愁の男を感じるジョージの名曲です♪

 ☆ While My Guitar Gently Weeps.
    (ホワイト・アルバム収録の言わずと知れた名曲!~エリック・クラプトンの弾くリード・ギターが哀愁ある泣きのギターとして有名ですね~!)

アムンゼン―極地探検家の栄光と悲劇 Book アムンゼン―極地探検家の栄光と悲劇

著者:新関 岳雄,松谷 健二,エドワール・カリック
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 ☆ その人生を未知への探究に費やしたアムンゼン~彼の劇的な生涯を綴る1967年著作の貴重な復刻版!

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 ギター練習法

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      「イラスト - エアロスミスのジョー・ペリーとギブソンLP」

今回はギターの練習方法について少しふれますね。 
先週より私あてのメールで、「ギターを始めたいのですが、どう(何から)練習したらいいのでしょうか?~」という問い合わせをお二人の方から頂きました。(男女各1名ずつでした)


と、その前に――、カヴァティーナという美しい曲(映画「ディア・ハンター」より)
    がありますので、どうぞお聴き下さい~♪ 
  私もときおりですが、休日の午後などに弾く曲なんですよ。
ただ、シンプルで綺麗なメロディとは異なり、押さえの難しい曲(セーハが多いwっ)です。 (中でも下降するメロのフレーズは ジョンの作風にも似て哀愁も感じますね)
 ☆皆さんも いつかレパートリーに加えてはいかがでしょうか?

     ♪ カヴァティーナ (ギタリスト:ペオさん)

     ♪ 弾き方のサイト (コードのポジションの参考になりますよ!)     

 

 さて、以前ギターについて少し(?)ふれたり、私のプロフの趣味欄にギターもあることからのご質問だということで、記事以外で趣味に関心をよせていただいて嬉しい限りです、ホント。 ともあれ、ギターの始め方~練習方法というのは、実は人それぞれのような気がします。 

 私の友人達もいろいろで、友人や兄から教わったり、裕福(笑)な家庭環境の人は専属の先生がいたり、スクールに通ったり・・・とさまざまで、一概にどれが正しいということもありませんねwもっとも、プロ志向の方はそういったスクールに入ったり、専門学校に進むとは思いますが~。 しかし、実は一番多いケースは「独学」なのではないでしょうか~?(笑)
 私も友人から中学の時に安く譲ってもらったアリア・プロというギターで練習を始めたんですよ(懐かしいwもう何年前なんだろう?・・・汗) 今回、ご質問された方達はチューニングはマスターされているそうで、基本はバッチリですね! (ちなみに普通ギターは、一番太い6弦から順番に E、A、D、G、B、E というノーマル・チューニングですよw)

 最初はコードも分からず、もらったコード・ブックを見ながらゆっくりと押さえてみましたね  ・・C、A、D、E、G・・・とメジャー・コードから。 ただ、やはり曲を弾いてみたいと気がはやり、ビートルズの「ハード・ディズ・ナイト」に無謀にも(笑)挑戦したと思いますw、ハァ。
 ギターを始めて誰しも(?)直面する壁が「Fコード」とよく言われますね~、そして「ハード・ディズ~」にも使われていましたw(汗)。 

 では一体どこがこのFコードが難題なのでしょう? それは、慣れない左手(右ききの場合)で、例えて言うなら「まことちゃん」という(ふ、ふるっ!)かつて一世を風靡した梅図先生のマンガに出てくるような「グワシ」や「サバラ」などの変(?)な手つきをある程度の力加減でネックを握り~の、弦を押さえる、~という文章にすると余計分かりにくい表現となってしまいます(笑)。 ギターを弾く方であればご存知だと思いますが、やはりこればっかりは練習!というより慣れですよねw。 私の場合、幸い(?)違和感なく手が反応してくれたので意外にすんなりでしたが、多分そういった「F」は難しい」という情報すら知らなかったことが逆に「F」を過剰に意識しなかった要因だったのだと思います。 

 あとは特に何のアドバイスってないんですよ、ホント。(なげやりw?) 好きな曲を弾きたいっ!っていう熱い想いがあれば自然と弾けるようになると思います。 さすがに、最初からどう考えても難易度の高い曲に挑戦するのはムリがありますが(笑)、スタンダードな名曲や映画のサントラなどのゆったりとしたムードのある曲を練習すると、弾いていても楽しくなりますし、やがて友人などの前で何気に(笑)弾きたくなったりして、それもまた練習への意欲にも繋がるはずですし。 まずは考えるより実行~習うより慣れろぉですね!

 参考までに、最近私が友人に勧めたりした市販のギター練習本、教則本をご紹介します。
あとは、是非毎日30分でもギターに触れて、少しでも弾くことでしょうか。どんなプロのギタリストもそこから始めたわけですからっ! 最近ではミニ・ギターもあり、小柄な女性や子供でも手軽に弾けるようですよ。  では、身近な趣味のひとつとして、ギターはおススメですw一緒に楽しく頑張りましょう!! 

 ♪ ビートルズの「ブラック・バード」も味のある素敵な曲ですよ!

       ♪ ブラック・バード(試聴)

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☆ 初心者には是非おススメ! ギターの構え方、弾き方から始まり、簡単な曲を付属のCDと一緒に徐々にマスター出来ます!

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☆ こちらは中級者向け(?)って感じです~ビートルズの名曲中心に20曲も! 弾きたい曲から自分のペースでマスター出来ますよ♪ (もちろん私も持っていて、半分をレパートリーにさせてもらってます!)

今日の選曲は、私がビートルズを聴き始めた頃に衝撃を受けた曲のひとつっ!

☆ Please Please Me.

                      ♪ライヴ映像

 (今聴いても色あせない新鮮な輝きを感じる4人の若さ溢れる名曲ですねw!)  

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 ガガーリン

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今日7月7日は「七夕」です。 星の世界では年に一度の大イベントですが、今から45年前にも人々が「空」に注目したある重要な出来事がありました。 人類史上初めて宇宙空間へ飛び立った人物~ガガーリンが有人飛行に成功した記念すべき出来事です。      
                                            「イラスト - 戦闘機にて飛行訓練時のガガーリン」

 ユーリ・ガガーリンは1934年3月9日、旧ソ連(現ロシア共和国)グジャーツク市
(現ガガーリン市)クリュシノで生まれます。 両親はコルホーズ(集団農場)の
労働者でした。 
幼少期は第二次世界大戦の真っ只中で、彼の住む地域へもドイツ軍が攻め込み、
防空壕での暮らしを余儀なくされたと言います。 

 やがて終戦を迎え中学を卒業すると、工業技術を学ぶためにサラトフにある
学校へ通います。 エアロ・クラブに入り飛行への関心が高まると、1955年に
オレンブルグ航空士官学校に入学、航空学を学びます。 
そして、在学中の1957年に彼の人生を左右する二つの出来事が訪れます。 
ひとつはオレンブルグで出会ったバレンチナ・ゴリチェバとの結婚
そしてもうひとつは、世界を驚愕させた人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ
の成功です。

当時の冷戦下では主にソビエトとアメリカという超大国が宇宙開発競争を展開
しつつありました。  宇宙開発はイコール軍事開発競争であり、両国とも
いかに先に衛星の打ち上げを成功させるかという「分刻み」でしのぎを削って
いたのです。 
そして1957年10月4日のソビエトによるこの人工衛星打ち上げ成功は、
世界に(アメリカに)衝撃を与えることになったのです。(スプートニク・ショック) 

ソビエトの開発研究チームはセルゲイ・コロリョフを中心として、またアメリカは
ドイツから亡命したフォン・ブラウンを中心とした組織による熾烈な開発競争
でした。   これはそれぞれの国の威信もさることながら、兵器利用が可能と
なることによる脅威
を示すため、スプートニクの成功はアメリカをはじめとする
西側陣営を驚愕させたのでした。  
そして、アメリカは翌1958年1月に何とか「エクスプローラー1号」を打ち上げ
ますが、この時点ではソビエトが一歩も二歩もリードしていたのです。 

 そんな世界的な出来事によって、ガガーリンが宇宙への興味をどんどん
増幅させていったということは想像に難くありません。 
当然ソビエトはアメリカを突き放すために次なる計画である「有人飛行」を
進めます。 
宇宙船の開発をすすめる一方、優秀な宇宙飛行士が必要になり20人の
候補生が公募により集められ、その中に若きガガーリンの姿がありました。
  それから約9ヶ月間にわたる精神的・肉体的な厳しい訓練を受け、徐々に
人数は絞られていきます。 
最終的に2人が残され、見事ガガーリンが歴史的な宇宙飛行士のチャンスを
つかむ
のでした。 
(選考については、ガガーリンが158センチと小柄であったためとか、彼の
            人間性をコロリョフが気に入ったとか諸説ありましたね)

 かくして1961年4月12日午前9時7分、ガガーリンとソビエトの野望を
乗せた「ボストーク1号」がヴァイコヌール宇宙基地より飛び立ちました。 
そのまま順調に地球周回軌道に入ると、そこは人類が初めて目にする
宇宙空間~ガガーリンはどんな気持ちだったのでしょう――
有名な「地球は青かった」という発言にもまた諸説あり、本当は「地球は青い
ヴェールをまとった花嫁のようだった
」という文学的な表現だったとも――。 

 ともあれ順調でしたが、実際には宇宙空間での機器類が正常に作動して
いるか、体調に異変を感じないか、など地上との交信も任務であり、
ゆっくりと地球を眺めることは難しかったのかも知れません。 
そんな中、国営タス通信のニュースでガガーリンの大尉から少佐への昇進が
伝えられ
、彼本人も喜びます。 
やがて地球を一周するころ予定通り大気圏に突入し、サラトフ近郊の畑に
無事降り立ち帰還を果たすのでした―― 108分という短時間でしたが、
人類が宇宙空間へ行き、計画通りに無事帰還したという大成功だったのです。 

帰還後は盛大なパレードが行われ、時のフルシチョフ書記長と対面し、
また世界各国をソビエト宇宙開発の「広告塔」として訪問します。
~こうしてアメリカはまたしても屈辱を味わいますが、数年後に時代の流れが
変わるとはこの時誰も知る由もなかったのでした。 

 1966年にソビエトの宇宙開発をリードしてきたコロリョフが病に倒れます。
 この頃からすでに暗雲が垂れ込めていたのでしょうか、
――1968年3月27日、2度目の宇宙飛行のため ミグ-15での飛行訓練を
していた最中、ガガーリンは墜落して同乗していた教官とともに帰らぬ人に
なります
。(享年34歳) 
あまりの突然のことで当時しばらくは誰もその事実を認めなかったと言います。
 後に事故原因もいくつか挙げられましたが、どれも確証に乏しく謎の残る
最期となってしまいました。 国策とは言え労働者階級出身のガガーリンが
成し遂げた人類初の有人飛行――(政治的戦略を除けば)彼が人々に夢と
ロマンを与え、来るべき次世代の宇宙時代への希望の光を灯したヒーロー

に変わりはないのです。

 ボストーク1号から2年後の1963年6月16日、「ボストーク6号」により
世界初の女性宇宙飛行士となったテレシコワ」~彼女もまた「私はカモメ
――という名文句とともに歴史に名を残しました。(「私はカモメ」については、
多々誤解もあるのですが・・・)     そしてアメリカも紆余曲折を経て、
1969年の「アポロ11号の月面着陸」へと至るのです。

1981年4月12日、ガガーリンのボストーク1号からちょうど20年のその日、
新しい宇宙開発の時代が始まります。 アメリカのスペース・シャトル
(再利用型宇宙往還機)の初飛行が行われたのです。 
依然、冷戦は続いていましたが、ガガーリンの偉業を讃えたこの日を
人類共通の宇宙記念日」と認識してのシャトルの飛行は、技術だけではなく
意識面でも新しい段階に入ったことを予感させるアプローチでした。 
1989年、東西冷戦の象徴でもあった「ベルリンの壁」の崩壊により、時の
ゴルバチョフによるペレストロイカは実を結びます。 
1990年には日本人初となる宇宙飛行士としてジャーナリスト・秋山豊寛さん
がソユーズに乗船するなど、各国の協力が得られる開発の姿がそこには
存在してきたのです。

 ここ数年は残念ながら、記憶に新しいイラク戦争やロシアからの独立に伴う
内戦、テロによる緊張、そして「北」の不穏な動きなどで「きな臭い国際情勢」と
なっています。 
さまざまな事情で国際宇宙ステーションなどの建設もなかなか進まないようです
が、せめて国家間のひずみは宇宙開発に影響を与えないような協力はして
ほしいものです。 
ガガーリンをはじめ多くの宇宙飛行士たちは、宇宙から見た地球がとても美しく
かけがえのない生命の星
と感じ、神聖な力を感じたそうです・・・
――争いのない、共存するという平和な暮らしを一番望んでいるのは、
                      他でもない地球なのかも知れません――

 
 今回は「七夕」であり、我らが(?)リンゴ・スターの誕生日でもありますので、
                              この曲を選曲します~!

 ☆ With A Little Help From My Friends.
  (あのサージェント~の2曲目に挿入され、リンゴのヴォーカル曲としては
   1,2位を争う人気の曲です~リンゴにぴったりの作品ですね!)

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 ☆ ガガーリンをはじめ、リンドバーグやアームストロングなど、人類の夢と
     ロマンである「空」を目指した男たちのドキュメンタリー!
 
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