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ビートルズ日本公演

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             「イラスト - 7月1日昼の部でのジョージ」
 


あの伝説のビートルズ来日からもうすぐ40年が経とうとしています。 
(ちなみに私も四捨五入すると40です・・・汗) 
日本中を熱狂の渦に巻き込んだ5日間・・・・・ビートルズとしては最初で最後の
来日
でしたね。 

 1966年6月28日、折りしも台風4号が猛威を振るい、次のコンサート予定地~
極東の神秘の国 「日本」へ向かおうとしていたビートルズの一行は、アンカレッジで
足止めされていました。 つい先日までドイツ・ミュンヘンでの公演を終えた4人
でしたが、この頃になると狂騒とも思える各地でのライブ活動にメンバーの誰しもが
疑問を持ち始めていました
。 
マネージャーのエプスタインは、そんな4人にマンネリ化した欧米での活動から
離れた日本~フィリピンの地域を候補に挙げたのでした。
                (ジョンやジョージがアジアを希望したとも言われる)

 かくして台風の弱まった隙に(?)4人は羽田空港に到着したのです~時に
1966年6月29日午前3時50分、「世界のアイドル」ザ・ビートルズはJALの
ハッピを着てタラップを笑顔で降りて来ました

         (この時のJALの宣伝効果は、当時1億円とも言われている) 

 日本の地に着くやいなや、横付けされたキャディラックに乗り込むと、報道陣を
半ば振り切るように夜明け前の首都高へ突き進みます・・一般車両を制限した
貸切状態(!)の首都高を一路宿泊する東京ヒルトン・ホテル
                            (旧:キャピトル東急ホテル)
へ向かう一行。 
この模様は幾度となく放映された映像からも確認できますが、やはり朝焼けを背に
首都高を走る車の映像とともに流れる「ミスター・ムーンライト」は強烈なインパクト
がありましたね!

 その日のうちに記者会見が行われました。
       (400人を越えるといわれた報道陣、当時としては前代未聞!) 
通訳をとおしてのせいか、今からするとたどたどしい質疑応答もありましたが、
注目すべき発言もありましたね。
       (ベトナム戦争について、いつも気にかけている、など)
普段どおりおどける4人に、当時の日本側の慣れないせいか堅苦しいやりとりが
何とも新鮮(?)な記者会見でした・・・汗。

 翌30日夜に最初のライブが行われますが、前座の演奏が1時間ほどあり、
その顔ぶれもさまざまでした~内田裕也、ジャッキー吉川&ブルー・コメッツ、
尾藤イサオそしてドリフターズなど
、それぞれ個性あるパフォーマンスを見せた
ようです。 
     ――そしていよいよビートルズの登場となります――。 

 当日の司会として立った故・E・H・エリック(故・岡田真澄の兄)が本人曰く、
「最も短い司会だった」という名言(?)とともにさっそうと現れた4人は、歓声を浴び
ながらもいつものように淡々とギターのチューニング(音程の調整)を始めます。
 すると突然ジョンがギターをかき鳴らしオープニング曲「ロック・アンド・ロール・
ミュージック
」を歌い出すのです! 
こうして歴史的な日本での公演が幕を開けました。 
しかし、キーを半音下げた演奏のせいか、それともコンサート活動への興味が
薄らいでいた時期だったためなのか、全体的にこの日の演奏は散漫な印象と
世間から批評
されました。 

 それまでの各地での悲鳴に満ちた中でのライブと違い、規制もあってか大人しい
日本人の観衆
は、ビートルズの4人にも少なからず影響を与えたようです。 
この武道館では、珍しく本人達も自身の演奏が聞こえ(!)コンサート活動をして
ばかりで演奏技術が進歩しない・・・と感じたのも無理もありません、、、、、
当時はPA(音響システム)が未熟でモニターもない環境の中で、絶叫するファン
の前で演奏しハーモニーをつける~という今では考えられない悪条件だったの
ですから・・・。 

 ミュージシャンの間では「あの状況の中であれだけの演奏が出来た
ビートルズは奇跡に近い~
」などと後年言われるようになりますが、
スタジオでのビートルズの演奏を聴けばそれも納得です。
 また、よくビートルズは演奏が下手などと揶揄されます
(この武道館での印象が強いため?)が、それは全く違うのです。

 仮にクラシックのヴァイオリン奏者が絶叫の中で2年以上もコンサート活動
をしたとします~そしてある時静まりかえった会場ではたして以前のような
音色でどこまで弾くことが出来るでしょうか?
(例えばの話ですよ~) 
まぁ、とにかく気を持ち直した4人は翌日7月1日の演奏からは見違える
ような以前のサウンドになりました~よかった、よかった(笑)。

 この来日の間、ビートルズは武道館で計5回コンサートを行いましたが、観客
の中には有名人も多数いらっしゃいました~沢田研二、三島由紀夫、遠藤周作、
かまやつひろし、財津和夫などなど、志村けん
も見たとか・・・。(敬称略)  
嵐のように過ぎた5日間、滞在時間約103時間・・・悲鳴と絶叫をあとに、次なる
コンサート地フィリピンのマニラへと飛び立って行きました。  
            (フィリピンではひと騒動ありますが・・・)

 期間中、警備に動員された警官はのべ8400人と言われ、アーティストに
対しての異例ともとれる異常な警戒体制が注目されましたね、来たる安保闘争
やVIP訪日に向けての予行練習であったとかなんとか言われましたが、
何より無事に公演を終えたことは幸いでした。 まだまだエピソードや紹介
したいお話もありますが、かなり長くなりそう(笑)ですので、次回(?)機会が
ありましたら記事にしたいと思います。 

  また、彼らが宿泊したキャピトル東急ホテルが2006年の11月で閉館・
建て替えとなり、貴重な想い出がまたひとつ・・・残念です。

 とにもかくにも、来日してからわずか2ヶ月後の1966年8月29日の
サンフランシスコ(キャンドル・スティック・パーク)でのライブを最後に、
ビートルズはコンサート活動を二度と行うことはありませんでした・・・。
そう思うとギリギリのタイミングで実現したビートルズ日本公演は貴重な出来事
となってその後のGSブームやファッションなどさまざまな分野へ大きな影響を
もたらしていくのです――。

                    2006・6.23   ― ルーシー

 今日のリクエストは、武道館でもエンディングで演奏されたロック・ナンバー!

 ☆  I'm Down. (ポールの絶品シャウトが素晴らしい!)

                      ♪  映像はこちら

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 ☆ ビートルズに同行した公認カメラマン、ロバート・ウィティカー撮影による
   来日時の貴重な写真集! 価格は高め(?)ですが、限定6000部という
   保存版ですね~私も購入する予定です(汗)。

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 平塚 らいてう

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                             「イラスト ― 晩年のらいてう」
 
 先日、職場の女性がこんな感じでぼやいておりました。
 ~「明日、パート契約の更新だよ。時給が上がるわけじゃないし面倒なんだよね~、男の人は社員になりやすいしいいなぁ~。」~と、何気に聞いていましたが、
男の人は~」という言葉に考えさせられましたね。                 
                           

 最近は男女の雇用の機会に差がなくなっている感覚でしたが、まだまだ実状
としてはそのパートの方の話す内容が本当のような気がしたのです。 
そして、今風(?)に言えばフェミニズムやジェンダー(社会的な性別)論にも関連
する歴史上のある女性の名前が思い浮かびました・・・。

 女性解放運動や平和活動で知られる「平塚 らいてう」(敬省略)です。 
「平塚 らいてう」<らいちょう - 本名:奥村 明(はる)>は1886年2月、東京
の麹町に生まれました。 らいてうは、大学在学中(現:日本女子大)からそれまで
封建的な男性社会や良妻賢母という言葉などに違和感を感じ始めていました。
 女性としての尊厳(権利)と社会的自立を改めて理解しようとしたのです。

 そんな折の1908年、恋中となった作家の森田草平と心中未遂事件を起こし
ます。(塩原事件 - 当時、スキャンダラスな出来事として世間の注目を浴びる、
                                      煤煙事件とも言う)  
1911年、女性初の文芸誌となる「青鞜」(せいとう)を創刊。(青鞜社を結成)  
有名な「元始、女性は実に太陽であった」という印象的な創刊の辞を発表し、
女性解放運動を促します。 これは、当時「大正デモクラシー」という比較的穏やか
で民主的な時期にあって、各方面に衝撃を与えた出来事でした。 
(また年下の画家である奥村博史と同棲し、「若いツバメ」という言葉も話題となる)

 1918年、創刊時に詩を寄せた同士でもあった与謝野晶子と、母性と経済的
自立に関する論争を展開します。(母性保護論争)  
晶子が「婦人公論」などの大衆紙に持論を掲載し、らいてうが反論を掲載する
     (スウェーデンの女性思想家エレン・ケイの著作から影響を受けていた)
というやりとりが行われたのです。 らいてうと晶子は対照的な生い立ちであり
双方の意見とも説得力はありましたが、他の多数の女性運動家とも絡んだ
論争になったため、この一連の経緯が結果的に女性問題へ世論の関心を誘う
きっかけ
となったことが重要なことであったと思います。 

 1920年(1919年とも言われる)、戦前で唯一の女性の団体である
新婦人協会」を結成します。(市川房江らと) らいてうと房江はしばらくすると
対立し、それぞれが会を離れます。 しかし、後任の奥むめおなどの同士達は
粘り強く運営を続け、婦人の参政権獲得の為~ついに「治安警察法 第五条
の一部改正に成功するのです。 

 時は過ぎ、1941年に始まった太平洋戦争は、3年と8ヶ月にも及ぶ死闘の末
ようやく終戦を迎えますが、この凄惨な戦争という過ちからは、らいてうもまた
平和を願う強い意識に目覚め、女性主義のみならず平和憲法を軸とした
非武装・中立を訴え始める
のでした。

 1953年には、「日本婦人団体連合会」の会長、「国際民主婦人連盟」の副会長
を務め、軍縮や安保廃棄を主張。 1955年、科学者を中心とした核廃絶を
求める「ラッセル・アインシュタイン宣言」(アインシュタインの記事参照)が発表
されると、らいてうも湯川秀樹ら知識人と「世界平和アピール七人委員会」を結成
し、紛争などの平和的解決の重要性を唱えます。 
その後ベトナム戦争が始まると、「ベトナム話し合いの会」を結成するなど、
反戦・平和を訴えるのでした。 女性の権利と自立、そして反戦と平和を終生唱え
続けた
平塚らいてうは、1971年、ベトナム戦争の終結を見とどけることなく
その生涯を閉じました ――享年85歳。

 彼女の唱えた二つの大きなテーマ~女性の尊厳と自立、そして反戦と平和は
世界が未だに問題を残している人類の課題だと感じます。 
男女雇用機会均等法のもと、女性の社会進出目ざましい現代であっても、実際
には冒頭に述べたようなことが身近に存在していますし、戦争や紛争などは
絶えず起きているというような悲しい現状です。 
特に後者は民族や宗教、そして互いの利害などの複雑な要因が絡むため、
時代が変わってもなかなか各国の緊張は解けずにいるのです。
 
  
     ――先人達は今の状況をどんな気持ちで見守っているのでしょう――



 ☆ 関連する専門サイト    平塚 らいてう の会



 今日の選曲は、ジョンのソロ曲です~!
 
 ☆  Woman.  (1980年のジョン・レノンの遺作となった
              「ダブル・ファンタジー」中の美しいバラードです!)


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☆ らいてうの言葉を通じて、時代背景も見えてくるような
「ことば集」です。 わかりやすい解説付きで楽しめますね。

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 リンカーン

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アメリカの第16代大統領、エイブラハム・リンカーンと言えば~
    「人民の、人民による、人民のための政治
という言葉を含む有名な演説を思い浮かべます。 リンカーンは1809年、
ケンタッキー州ヘーディンの貧しい農場の丸太小屋で生まれました。

                          (イラスト - 「奴隷解放の父」 リンカーン)

 やがて、成人したリンカーンはイリノイ州ニューセレムに移り、ミシシッピー川でニューオリンズまで下る荷運びの仕事に就きます。 また、他にも郵便業務などさまざまな仕事を経験し、正直で真面目な彼の勤務ぶりは多くの信頼を得たそうです。 そして1836年には独学で弁護士の資格を取得し、翌年に弁護士事務所を開いてからは評判のよい弁護士として過ごします。 

 1846年、リンカーンはホイッグ党員として下院議員に選出されますが、2年の任期を終えるとしばらく弁護士として精力的に活動します。 ところが、政界から徐々に離れかけた彼に、再び復帰するきっかけとなる重要な出来事が起きるのです。 1854年、「カンザス・ネブラスカ法」の成立です。(1820年のミズーリ協定が無効となる) 民主党ダグラス議員の提唱したこの法案が成立するや、リンカーンは激怒し復帰を決断したのです~共和党結成へ。(奴隷制の拡大を促しかねない法案を危惧) 

 1958年には上院議員選挙に出馬し、彼にとっては因縁の相手であるダグラスと争いますが、~あえなく落選。 しかし、この選挙戦での彼の雄弁さは注目を集め(演説の内容、文章構成など表現力に優れていた)、1860年の共和党大統領候補に指名されます。 この選挙戦の中、有名なエピソードのひとつ~グレースというひとりの少女から手紙を受け取ります。
   「あなたはヒゲを生やした方がいい」~ と。

 かくして、ヒゲを生やしたリンカーン(!)は1860年11月6日、共和党初の第16代大統領に選出されるのでした。 (もちろん、少女のアドヴァイスの効果だけではありません)   しかし、リンカーンの大統領就任は、彼の政策に反発を強めていた南部の州が連邦から脱退し、新たにアメリカ連合国を結成する旨を宣言する~という事態を招きます。(当時はまだ、連邦政府より州同士の結束が強かったため) この国家としての形態崩壊の危機に、その主張を認めない北部の州とついに武力による衝突~南北戦争が始まるのです。

 有名な南軍のリー将軍北軍のグラント将軍などによる激戦が各地で展開されるのでした。 開戦当初は南軍優勢でしたが、1863年1月1日に「奴隷解放宣言」(本宣言)をリンカーンが発表するや、北軍への支持が広がり戦況が好転し始めると、同年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が勝利~優位に立つのでした。そして同年11月19日、ついにあの歴史的なゲティスバーグの演説が行われるのです。 (戦没者への墓地献納式典での演説)

 その後も戦いは続きますが、リンカーンは1864年の大統領選にも再選します。  まる4年にも及ぶこの南北戦争は、1865年4月9日、南軍リー将軍の降伏によりついに終結します。(双方で60万人以上の死傷者を出した) しかし、終結の安堵冷めやらぬ5日後、首都ワシントンで観劇中のリンカーンを南部支持の俳優ジョン・ブースの凶弾が襲います・・・・・ 

 貧しい家庭に生まれながらも、奴隷制への批判精神から独学で大統領に登りつめた苦労と信念の人~リンカーン~彼を尊敬の念で形容した言葉があります。 「丸太小屋からホワイトハウスへ~」 まさにアメリカン・ドリームを体現した象徴的な存在として、今なおアメリカ国民に慕われ続ける真の大統領なのです・・・


♪今日の選曲は、ポールがデビュー以前(16歳の時)に作曲したフォーク調の佳曲です!

 ☆ I'll Follow The Sun.   (歌詞もなんとなく記事に合いそうな・・・?、ポールらしいシンプルでメロウな曲ですね~)

リンカーン―どれい解放の父 Book リンカーン―どれい解放の父

著者:松岡 洋子
販売元:講談社
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 ☆ 南北戦争という大戦をくぐりぬけ、連邦制を守り、奴隷解放をつらぬいた信念の政治家~リンカーン大統領の凶弾に倒れるまでの半生を描いた感動の伝記です。

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 ゲーテ

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私の部屋の壁にも格言やことわざなど、先人達の残してくれた言葉の財産がいくつか掛けられています。       その中でも、特に有名な人物のひとりである「ゲーテ」 について今回はふれたいと思います。


                              (イラスト - 晩年のゲーテ)

  「ゲーテ」  (ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)は1749年にドイツ西部の
都市、フランクフルト・アム・マインで生まれます。 裕福な商人の家柄で育った彼は、教育熱心な父 (皇帝顧問官)のもと家庭教師をつけられるなどして、少年期には
英語、フランス語など数ヶ国語を習得していた
といいます。
そんな恵まれた環境と生来の努力家もあってか1765年、16歳にして
伝統あるライプチヒ大学(法学部)に入学
します。
(※ このライプチヒ大学へは文豪の森 鴎外も医学部へ留学したことがある)
 しかしライプチヒでのゲーテは法律学への興味を失い、専ら青春という時期を
楽しんでいたといいます。
そんな生活がしばらく続き、ゲーテは病気を患い(結核と言われている)帰郷、
療養します。(1768年) それから約1年半後、体調が戻ると父の勧めで
フランスのストラスブール大学へ向かうのでした。 

 この頃、5歳年上の哲学者ヘルダーと知り合い、さまざまな文学への視点、
アプローチを学びます。 また、牧師の娘フリーデリケ・ブリオンに恋をし、
後の有名な抒情詩「野ばら」へインスパイアされるのでした。 1771年に
卒業すると帰郷し、弁護士として生活を始めますが、文学に目覚めていた
息子を心配した父は、さらなる法学の習得のためにヴェッツラーの裁判所
へ向かわせます。
 環境が変わっても相変わらず文学への関心ばかりのゲーテは、ある日、
村の舞踏会でシャルロッテ・ブッフと出会います。 知的で美しいシャルロッテ
にたちまちひとめぼれするゲーテ、積極的にアプローチを続けるのでした。 

やがて、彼女がゲーテの友人であるケストナーの許嫁(いいなずけ)と
分かるも、3人の親交は深まったといいます。 しかし、やはり叶わぬ恋に
絶望したゲーテはヴェッツラーを去るのでした。 

 その頃ショッキングな出来事が起こります~ヴェッツラーでの友人、
カール・イェルーザレムがゲーテの様な叶わぬ一方的な恋の末、自殺する
のです。 この出来事に衝撃を受けた彼は1774年、代表作のひとつ
若きウェルテルの悩み」 (通称:ヴェルター)を発表します。
この小説は当時ヨーロッパ中で大ヒットし、内容に影響された若者の自殺が
急増した(実際には数名とも)とも言われ、この作品で一躍ゲーテは有名に
なったのです。 (前年には戯曲 「鋼鉄の腕 ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン
                      (通称:ゲッツ)も発表されている)
 1775年になると、プライベートではフランクフルトの資産家シェーネマン家
の娘リリーに恋をしたりしますが長続きせず、11月にワイマール公国の
カール・アウグスト公の招きでワイマールへ向かいます。 一時の滞在の
つもりでいたゲーテでしたが、アウグスト公や宮廷の人々と接していく中で、
留まりたいという心境になったといいます。 中でも、優雅で包み込むような
魅力を持った、シャルロッテ・フォン・シュタイン夫人に夢中になったゲーテは、
彼女から人間的に多大な影響を受けるのでした。 

 公国でゲーテは政務に就き信頼を得ていましたが、1786年突然イタリア
へ向かい、2年ほどの放浪後帰国するという無謀にも見える行動をします。
      (後に発表される 「イタリア紀行」 の下地となる経験と言われる) 

 その後のゲーテはフランス革命(1789年)に始まる諸戦争に関係したり、
ナポレオンと会談するなどのエピソードを残しますが、文学活動を着々と
こなし続け、1808年には彼の代表作である長編戯曲、
ファウスト」 (第一部)を発表します。(第二部は死後の1833年に発表される)

  晩年は自伝的な作品が増えたりしながらの文学三昧の日々を過ごし、
1832年に永眠しました。

 ゲーテと言えば 「ヴェルター」 や 「ファウスト」 などの作品が有名なだけで
なく、自然科学者としての側面も重要な人物ですね。 特に、ニュートンの
科学的色彩論」に反証した人間的色彩論」や植物学は目を見張る研究です。

 また、我々の身近なゲーテと言えば、冒頭にも述べました 「格言」や「金言
でしょうね。 時代を超えて通用するキャッチ・コピーのような普遍性と、
的を射た鋭さが人気の理由なのでしょうか。 最後にその中から有名な
ゲーテの言葉をいくつか紹介しましょう。



「行動が全てだ。 栄誉に価値はない。」

「人間はなんと知ることの早く、行うことの遅い生き物だろう」

「涙とともにパンを食べたことのないものに、人生の味はわからない」

「財産を失ったのは、いくらか失ったことだ。
     名誉を失ったのは、多くを失ったことだ。
        勇気を失ったのは、すべてを失ったことだ。」

「我々はいろいろ理解できないことがある。
     生き続けて行け、きっとわかってくるだろう。」


                           ―  ゲーテ

 
俳句や短歌のように一切無駄な言葉がなく、それでいて深い  ですね。
もちろん、ゲーテに限らずいつの世にも素敵な言葉は存在します。 
私のように壁に掛けて満足している(笑)ようでは意味がなく、まさしく
行動あるのみなのでしょうね、頑張ります。(汗)

           < 関連おススメ~サイト >

☆ A Wandering Life. (管理人「しまさん」のワンダー・サイト)

☆ 勇気と希望の格言集 (管理人「哲学博士」の格言専門サイト) 

   では、今夜のリクエストはビートルズからの最後(?)のメッセージである
「アビィ・ロード」からの曲です~エンディングで           
君が受け取る愛は、君が与える愛と同じ・・・」とドキッとするセリフ
  が登場します~♪ (こ、これも格言ですね~!)

 ☆  The  End.  
      (リンゴのドラム・ソロのあと、ポール~ジョージ~ジョンの順での
       ギター・ソロは感慨深いです、ハイ)

座右のゲーテ -壁に突き当たったとき開く本 Book 座右のゲーテ -壁に突き当たったとき開く本

著者:齋藤 孝
販売元:光文社
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☆ 最近はテレビでもおなじみになった斉藤先生の著書。 
  ゲーテを絡めた新しい切り口で、何かと迷いやすい現代人へ
  ヒントを提示してくれます。

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