大船渡市~普代村へ
先月中旬から今月初めまで、大船渡市、釜石市、大槌町、宮古市、田野畑村、
そして普代村へとそれぞれ訪れました。
大船渡ではよく立ち寄った駅周辺のお店や漁港付近へ行き、その現状、津波の被害の凄まじさにあらためて恐怖を覚えました。がれきは整地され、一部の道路は1mほど砂利でかさ上げされ、復興へのステップを実感しました。 大船渡駅(跡地)近くには仮設商店街も営業して。いつか以前のような、・・・いえ、それ以上の港町に活気づくよう祈らずにはいられませんでした。
「ありし日の大船渡駅」
次に釜石市へ向いました ――。
釜石は私が幼少の頃に父の転勤で数年間住んでいた街です。
よく行っていたデパート付近の商店街へも津波は押し寄せていて、昔の面影は
やはりありませんでした。釜石駅付近まで浸水し、当時の報道で駅前が海水で
満ち、たくさんの車が浮いている写真を見た時はさらに驚いたものでした。
釜石駅はイメージとして海から離れていると思っていたのですが・・・
大槌町では一面に被害が感じられ、かつての街並みを想像すると、その現状に
涙があふれました・・・建物がほぼ破壊され遠くまで見渡すことができていて、
海が近くに感じられたことがさらに悲しくなります。
これは前回の陸前高田市の被害状況を見た際に感じた気持ちに似ていました。
こちらでも街中で手を合わせ・・・宮古市へ向かいました。
宮古市に到着すると、まず市役所の4~5階から防波堤が臨める非常階段へ上がりました。当時その付近から撮影された津波の映像が鮮明に記憶されていたからです。
私が向った7月下旬、がれきはすでに片付けられ市内は活気が戻っていましたが、少し脇道へ入ると損壊したコンクリートの一部や家屋の破片も見られ、何より建物の土台だけが残る数々の空き地があの日の生々しい記憶を留めているのでした・・・ (写真は7月現在の宮古市役所からの街並み)
その後、田老へ向いました。 あの万里の長城という異名を持った大防潮堤を
間近で見ました ―― というより見上げました・・・それだけ巨大な防潮堤 (高さ約10m)
なのですが、津波は軽々と乗り越えて多くの家屋を襲ったのです・・・・・ 防潮堤の海側ではたくさんの重機が護岸工事などの作業中でした、猛暑の中で頭が下がります。
防潮堤へ上がり、その高さに驚きながらしばらく手を合わせていると、年配のご夫婦が犬を散歩しながら近づいて来ました、
地元の方なのでしょう。
私はこうした状況に挨拶すら躊躇していましたが、そのご夫婦は「こんにちは」と
自然に声をかけてくれたのでした。なんだか躊躇していた私は恥ずかしくなると
同時に、地元の方々の強さに逆に励まされたのでした。
さらに北上し、田野畑村へ着く頃には沿岸は断崖が続くようになりました。
海のアルプスと呼ばれる有名な景勝地 「北山崎」 を展望台から眺めると、
本当にあの大震災があったのだろうか・・・と一瞬でも忘れさせてくれます。
そして、東北には、岩手にはこうした自然の遺産がまだまだ存在し、私たちを
癒し励まし続けてくれる ―― と気付かされます。
今回の期間中、最後に訪れたのが普代村です。
北山崎から車で約20キロ走ると普代の街並みが見えてきました。 早速、あの巨大津波を最小限に防いだことで有名になった 「普代水門」へ。
間近で見ると、やはりその大きさに驚きます。15mの高さの巨大水門。
頑強な分厚いコンクリートがあの日、村中心部への津波の侵入を防いだのです。
建設時には反対の声も多かったそうですが、天災への備えの重要さをこの巨大水門は語りかけているようです・・・
その先にある太田名部漁港へ向い、力強い復興作業に励まされながら帰途に
つきました ――。
被災地は徐々に復興していきます。しかしそこには懸命な人々の作業と強い
「思い」があることを決して忘れてはいけません。
そして、まだまだ始まったばかり、ということも・・・
災害は他人事ではなく国民ひとりひとりの認識が必要です。
これからもずっと支援や心のケアは必要であり、そのためにも国や行政が特例
での法改正や被災者への優遇措置を迅速かつ継続的に行うことが前提です。
私も可能な範囲で支援し、これからも現状を発信していけたら、と思います。
※ 今回も行く先々でお会いした方々へこの場を借りて感謝申し上げます
2012・8・16 ルーシー
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